番外編 1
 うららかな日差しが暖かい春。橘秋揮はうん、と伸びをして机の前に座ろうとした。彼はこの国にいる時は仮にも将軍。仕事は大量にある。
 今日も越国は快晴、そして平和。何より何より。そう思っていた時だった。だがこの城の中でも指折りの苦労人である秋揮の気分は、一瞬でぶち壊しになる。
「橘将軍――! たたた大変ですっ!」
 執務室の障子の紙を破らんとする勢いの声に、秋揮は思わず墨壺に右手を突っ込みそうになった。
「……こんな朝早くからどうしたんだ?」
 すんでの所で被害を免れた秋揮は、くるりと振り向いて飛び込んできた部下達と向き合った。
「すみません! 今日も王を見逃してしまいましたあぁぁぁ!」
「ああぁぁぁぁまたかああああ」
 その言葉に彼は自らの威厳も忘れ、部下の前で頭を抱えそうになっていた。
 


 秋揮が執務室で頭を抱えそうになっている頃、ひとりの男が城下町をふらりと歩いていた。身なりは周りを歩く者達と何ら変わりはないのだが、その男が持つ眼光は見る人が見れば強く、鋭いものと分かるだろう。
 何より彼は、生きる力のオーラというものを身体から発していた。
「おばちゃん、朝の定食ひとつおくれ」
「いらっしゃい、ちょっと待っておくれ、すぐ作るから」
「はいよ」
 短い言葉を交わして、その長身の彼はどっかと卓に座り込んだ。どうやら彼はそこの常連のようで、店にまばらにいる客も愛想良く彼と挨拶を交わしていく。
「しばらく見なかったが、元気そうだな」
「まあな。おかげ様でな」
「それにしても、お前は一体何の仕事をしてるんだい?」
 たまに現れる癖に、城下町で仕事をした事がないその彼に、常連客の一人は訝しげに問うた。その問いに、彼は豪快に笑うだけで答える事はなく、タイミングよく置かれた定食にかぶりついていた。
「ほいお待たせ。それにしても、ほんとにあんたはこれが好きだね」
 その城下町の小さな食堂の女将は、出した定食を見ながら首を傾げている。確かにそこにあるものは、ほくほくに揚がった鶏の唐揚げ、味噌汁、ご飯という質素なものである。この定食を彼はふらりと現れる度、頼んでいくのだ。不思議なものである。
「まあね。俺は同じものを繰り返して味わうのが好きだからさ」
 その言葉の割には凄まじい勢いで、食器の中身を空にしていく彼。女将はそうかい、と半ば呆れ顔で戻っていった。
「んじゃ、ごっそうさん!」
「また来なよ」
「おう!」
 あっという間にその食事を平らげた彼は、いそいそとお代を卓の上に置くと、あっという間にその食堂から去っていってしまった。
 その嵐のような客に、毎回女将は感嘆のため息をついてしまう。
 彼が去ってから数分後、今度は定食屋に、刀をひとつ腰に提げた男が現れた。どことなく身なりも綺麗な感じで、おまけに美麗な顔つきだ。
「いらっしゃい」
「ああ、残念ながら客ではないんだ。ちょっと今人を探していてね。長身で長い髪をひとくくりにした黒髪の男を知らないかい?」
「そう言われても黒髪の男はここらでは多いからねえ。……そういえばたった今、ひょろりとした男が出て行ったばかりだよ」
 女将が皿を出しながら言った言葉に、その男は頭を抱えていた。
「どうしたんだい? あの男を探していたんかい?」
「多分な。くそっ。一歩遅かったか」
「それにしてもここにはよく来るんだがね、あの男は一体何者なんだい?」
 女将が先程の男を思い出して言う。何とか立ち直ったらしいその男は、ただ肩を竦めた。
「まあ敢えて言うなら、目が潰れる存在かな」



 男は川原の端に寝転がって、そこらに並ぶ木々を眺めていた。
 木の種類は全て桜だ。それらは蕾をつけ、もう少しで満開の花びらを散らそうとしている。そんな最中であった。
「星虎」
 ふと後ろから彼の名前を呼ばれ、彼は思わず身を竦める。
「秋揮」
 そしてやや身体を起こして振り向くとそこには男――星虎の部下であり、親友でもある秋揮の姿があった。
 彼は一時ものすごい形相で彼を見つめていたが、どうやらそれも途中で馬鹿馬鹿しくなってしまったらしい。苦笑を顔に浮かべると、星虎の横にどっかりと座っていた。
「あんまり俺の部下を泣かせるなよ」
「そうか? 俺は丁重にお願いして出てきたつもりだったが」
「だから、それが可哀想なんだって。一国の王にいきなり頭下げてすいません出してくださいなんて言われたら、誰だって泣きべそもかきたくなるだろ」
 星虎はぺろりと舌を出してそれに答えただけであった。
 そう、今秋揮の隣に座る男は、この越国を担う王だ。まあ、王と言ってもこうして城から逃げ出すのは日常茶飯事な困った王であったが。
 二人はしばし、沈黙のまま同じ木を眺めていた。そよりと、二人に柔らかな風が吹いている。
「もうすぐ、桜が咲くな」
「ああ」
「なあ秋揮」
 星虎は、どこか遠くを見つめるような眼差しで、秋揮を見ていた。その瞳には、様々な表情を織り交ぜた、すべての感情が篭っていて。
「あいつは、今元気なのかな」
「……多分な。生きてはいるだろう」
「俺はお前に、面倒な仕事を押し付けるかもしれない」
 いつになく殊勝な態度を見せる星虎。秋揮は静かに口の端を上げる。
「なあに、気にすんな。俺の存在自体が面倒なもんだろ」
「じゃあ、引き受けてくれるのか」
「星虎がちゃんと執務室の椅子に座ってくれるのならな」
「……むむ。難しい難題を出すな、お前も」
 彼はそう言って、そのまま粛々と笑っていた。その姿に自然と秋揮も笑みを零す。
 どこからか、梅の花の香りが漂ってくる。