荒い息づかいがすぐ近くから聞こえていた。右手に視線を送れば崩れ掛けた、赤い煉瓦の壁。後方には緑を通り越して、もはや黒い色へと変わっている木々が広がっている。
ざあ、と強く風が吹く。その風と一緒に漂う、濃厚な獣の匂いと腐の匂い。その匂いはまるで泥の底にたまるゴミを重ねたようで。
それは他の何よりも増して、嫌悪させるものだった。
その場に佇む青年――アレン・トライザムの前に、一歩、また一歩と足音が響く。それは人のものよりかは僅かに、重い足音だ。ゆっくりと彼は視線を上げる。
牛はあろうかという、大きな胴体。それは黒い、艶やかな毛並みに覆われている。そして、その大きな胴体を支える、がっしりとした体躯の足。
何よりも特徴的なのは、その三つに分かれた、頭。頭それぞれがアレン達をじろりと睨みつけてくる。
「あーあ……」
アレンはその姿を認めると、小さくため息をついた。そのため息に含まれる面倒そうな声音に、右からたちまち非難の視線が寄せられる。
「どうして、『フェニックス』の人達は、いつもやる気がないのかしら。組んでて嫌になるわ」
「そう言われてもねぇ……。俺もまだやる気がある方なんだけどなぁ」
アレンはぽつりと呟いて、右隣へと目をやった。そこには、今日、共に組む事になった女子、ノイスター・アウランが立っている。きり、と勝ち気な瞳に剣呑な表情を浮かべて、ノイスターはアレンへ視線を向けてきた。
「仕方ないですよ。フェニックスは何せ、リーダーからやる気がないですから」
後ろから、ノイスターを宥めるように声がする。その声の持ち主はカイン・ファウスト。穏やかな声音に似た優男だ。
アレンはちらりと後方へ視線を送ってカインの姿を見ると、また前へと視線を戻した。
そこには、この学園を荒廃せしめている原因となっている、魔物の姿がある。
アレンは小さく息を吐いた。彼の右腕、肘から先が赤く、熱烈な光を帯びる。
そして、その右手をすっと素早く魔物へと向けたのだった。
* * *
アレン達は、ハノーヴァ王国でも一、二を争う、α・ミーミル魔法学園の生徒だった。
床には、多少汚れていたが、毛足の長い、赤い絨毯がひかれていた。年月が経って磨り減って使い込まれた黒い壁には、華奢な燭台が取り付けられている。
アレンはじわりと、大きな闇をはらむ廊下を一歩、また一歩歩いていく。黒い闇の中、壁に取り付けられた燭台の火が、辛うじてアレンの行く先を照らしていた。彼は手に華奢な飾りのついたトレーを持っている。その上には、これまた繊細なつくりのポットと、揃いのカップがひとつずつあった。
「……どーして俺、こんな事してるんだろうな……」
アレンの呟きが、誰もいない廊下に反響して消えた。確かにそのポットとカップが自分のものであったのなら、まだ良かったのだろう。
だがその二つは、自分のものではなかった。これから行く部屋の主を頭の中で思い浮かべて、またため息を吐く。
どう贔屓目に見ても、こんな執事じみたことは生徒のやることでは無い。
実際、彼はもう生徒では無かった。少なくとももう先生と呼ばれる大人から、何かを習う事は無い。そもそも、この学園にもう教師という名の大人はいないのだ。
一年前のとある事件が、この学園を変えてしまったのだ。
――卒業年次の生徒達による、反乱。
突如沸き起こったその反乱は、学園全体を巻き込んでの戦争へと発展した。
今となっては、どうしてその事件が起きたのか、誰が主犯者だったのか、知る者はひとりとしていない。例え知っている者はいたとしても、自ら口を開く者もいないのである。
その反乱は、二ヶ月もの間、続いてようやく収束した。卒業年次の生徒達と、攻撃された教師陣は全員死亡し、二年生から以下の学年も、多くの生徒達が死亡した。
そして、その反乱は、残された生徒達に、新たな問題を残していた。
まずは主要施設の崩壊。
そして、何らかの魔法、魔術による、魔物と呼ばれる校内の生き物達の突然変異。
どんな魔法が使われたのかは分からない。だが校内のありとあらゆる生き物の体が変化し、校内一帯は魔物が徘徊する場所となってしまった。
特に魔物の出現は、生徒達にとっての大きな問題となっていた。
そこで、生徒達はまだ使える施設へと住居を移し、炎、風、水、大地の四つでグループを結成した。そしてグループの中で魔法を指導しつつ、有事の際にはグループが協力しあい生き残る術をさぐり合っている。
現在、彼らが共通して認識している事はただひとつ。
どうしてかは分からないが、国がこの学園一帯を魔法で隔離して、第一級立ち入り禁止区域に設定したこと。この場所が魔物が徘徊する場所と認めたからだろうか。
つまり、この学園は現在、孤立無援状態となっているのだった――。
アレンは廊下の突き当たりに辿り着くと、目の前にある、黒い艶やかなつくりの扉をノックした。少し後に、中から小さな声が聞こえてくる。
「失礼しますよ、シエラ。……というか、これ、俺の仕事じゃないと思うんだけど」
「そう思うのだったら、やらなければ良いのよ」
扉を開けてのアレンの言葉に、可憐な声に似合わず、にべもない返答が返ってくる。
「ま、そうなんだけどさ……。たまには自分から動こうって気は無い訳?」
「私に台所を触らせたくないって言ったのは誰だったかしら?」
「いえ……何でもありません」
部屋の中に足を踏み入れて、扉を閉じる。部屋の中に入ったというのに、この部屋は廊下と同じくらい薄暗い。おそらく窓と言う窓を分厚いカーテンで遮っているせいだおう。僅かに部屋の隅に設置された燭台の火が、小さく揺れているだけだ。
そしてその燭台の隣に、一人掛けの椅子がある。ベロアの赤い布張りの生地に、細かく彫刻を施された上等な椅子。
そこに少女は座っていた。アレンの方に背を向けているので、何をしているのかは分からないが、どうせまた本でも読んでいるのだろう。
「あーあ……」
少女はため息を吐いた。続いてバタン、と小気味の良い音がする。おそらく本を閉じたのだろう。
「どうして私達には羽がないのかしら。私達は鳥籠の中に閉じこめられているのに」
ぽつり、と呟いたその言葉は、彼女の高い声も相まって、妙に部屋に響いていた。