一、かみかくし
その日は、城下町から聞こえてくる喧騒がいつも以上に賑やかだった。
それもそのはずだ。現在、ここ、越(こしのくに)の都、風越(かざごし)では、城下町一番の祭を明後日に控えているからである。北を四明山(しみょうさん)に囲まれた一帯、花刺子模(ホラズム)の中では一番血気盛んな者が集まる国とも言われている越で、祭の準備に民達が騒がぬはずは無い。
そんな訳で、越での軍を取りまとめる立場にある将軍、橘秋揮(たちばなしゅうき)も警備の手筈を整えたりと、いつも以上に忙しく立ち働いていた。城下町からの喧騒を耳に、無心で紙に筆を滑らせていく。
「橘将軍」
「入れ」
そんな彼の執務室の外から、兵士の声が掛かった。来訪の内容を告げようとする兵士の言葉を遮って、短く入室の許可を下ろす。
「失礼いたします」
その言葉と共に、襖が滑る音がした。続いて衣擦れの音がして、再び襖が閉められる音がする。
「こちらに祭当日までのとりまとめをお持ちいたしました」
「ああ。そこに置いてくれ」
秋揮は兵士を振り返ることもせずに、そう告げた。そこ、というのは、書が入っている箱を指したのだが、そこにはこんもりと紙が重なっているので、兵士が戸惑うことはないだろうと思ってのことだ。
案の定、小さくは、と諾を告げる言葉の後、背後で兵士が動く音がしていた。秋揮はその音を聞き、再び書に集中するために気持ちを切り替えようとしている。
そんな彼に、再び兵士から、躊躇いながらの声を掛けられた。
「橘将軍……少しお時間頂いてもよろしいでしょうか……?」
その言葉に、僅かに秋揮の肩が震えた。す、と最後の一文字をひいて、そして筆置きにそれを収める。
「どうした。……何か問題でも起きたか?」
「は……」
くるりと身体を反転させた秋揮の目に、こわごわと一枚の紙を差し出す兵士の姿があった。差し出された紙を左手で受け取り、ざっとそれに目を通す。
「巡回を終えた兵士達からの報告なのですが、どうやら神社で騒ぎが起きているようなのです」
「騒ぎね……何、誘拐事件?」
「はい。詳しくはまだ調べている最中なのですが、どうやら周りの噂によると、神隠しにあったなどという噂が上がっているようです」
「そうか……」
秋揮は眉根を寄せながら、ひらりとその紙を揺らしていた。ちなみに秋揮ひとりが、全ての軍を統括している訳では無い。けれども、彼がこんなにも祭の警備の仕事に追われているのは、今回彼が率いる直属の隊に、警備の当番が回ってきたからである。
そしてそれが今回は色々な意味で災いしたようである。前触れも無しにいきなり襖が開かれ、その向こうに立っていた人物を見て、秋揮はそう思った。