1.はじまり
その日は、よく晴れ渡っていた。
足元を攫っていく冷たい波。視界の丁度半分に広がる青くて塩辛い海。さらに視界の半分に広がる、薄い空。
今、その薄い水を広げたような空は、毒々しいまでに赤く色が染まっていた。途中で水色と赤が混ざり合い、みずみずしいグラデーションが広がる。
その不思議な色に照らされて、私の近くにある波も色を変えていた。まるで鏡に波が立ったようだ、なんて詩的な事を考え、なんてばかばかしいんだ、とため息をつく。
私はいつだって、ばかばかしいことしか思いつかない。
今だって、周りの人から見れば、物凄くばかばかしい事をしているんだろうな、と思う。
だがそれがどうした。
ばかばかしくて何が悪い。
ばかばかしい、上等!
心の中で思いっきり叫んで、少しだけ浮かれた気分になる。上等と思っている割には、周りを考えて、実際に大声で叫べないのが非常に残念だ。
そんな時、ざくざくと、砂を踏む音が斜めからやってきていた。
ざく、ざく。ざくざくざく。ざくざくざく。
その音は規則的なものがひとつと、不規則なものがひとつ。私は何だろう、と首を後ろに動かす。
そこにいたのは、お姉さんを卒業しかけたおばさんと、これまたお兄さんを卒業しかけたおじさんみたいな犬。みるからに雑種のような犬がざくざくと不規則に砂を踏み、その横でおばさんがざくざくと規則的に砂を踏んでいる。
だが、おじさんの犬はどうやら疲れてしまったらしい。私の近くでぴたりと足を止めると、何とか前に進もうと綱を引っ張るおばさんをものともせず、べたりと座り込んでしまった。
二つの足音が止まる。
さらに私とおばさんが見ている前で、その犬はとことんマイペースに過ごしていた。少し足を休ませたかと思うと、前足を小気味良いリズムで動かして、穴を掘り始める。
途端に砂の山が出来上がり、砂があちこちに飛ぶ。おばさんは迷惑そうに、だけど少しだけ楽しそうに、もう、とか言いながら足元の砂を払っていた。
「ふふっ」
何て言えば良いんだろう。その犬の穴を掘る表情が、何とも人間臭くて、私は思わず笑い声を漏らしてしまっていた。
その声に気が付いたおばさんは、私へと顔を向ける。
「うちの子、いつもここに来ると穴を掘るのよ。何か癖みたいで」
私が犬を見て笑ったのに気が付いたのだろう、彼女はそう言うと、面倒な子でしょ、と笑った。言葉と、声の表情が正反対だ。
犬は、二人の視線など意にも介した様子は見せずに、マイペースに砂とじゃれあっている。本当に、マイペースなおじさんだ。
犬を見ているのに飽きたのか、おばさんは私に視線を向けた。
「何してるの?」
的をついた、だが今の私が最も答えにくい質問をおばさんは投げかけてくる。私はそれに悩んでいると、彼女は私の右手へと視線を移動して、私が持っているものを発見したらしい。
「あらあら。可愛いじゃない、それ。もしかしてそれ、海に投げるの?」
「……ええ」
自分でもばかばかしい事をしていると自覚している私は、少し肯定するのに悩んだ。だが既にそれを発見されているのだ。半ば開き直って肯定する。
ばかばかしい、上等!
もう一度胸の内でそれを繰り返して、おばさんからくるであろう、呆れた視線に私は備えていた。ここで気分が沈んだら台無しだからだ。
だがおばさんは、私が思ったのとは幾分違う反応を返してきた。
「懐かしいわねー。おばさんも小さい頃、やった覚えがあるわよ」
おばさんはそう言って、海へと視線を送っていた。その目は懐かしいものを思い出すかのように細められている。
そうしている内に、ようやくやる気を取り戻してきたのか、おじさんがゆっくりと立ち上がった。
「上手くいくといいわね」
おばさんはそう言うと、おじさんのやる気を失わないうちにと思ってか、やや早足で歩き出した。再び二つの不規則な足音が響くのを聞きながら、私はひとりと一匹を見送る。
そうしながら、じんわりと胸の内に沁み込んでくる何かがある事に気が付いた。
それはこれからする事への期待か。それともおばさんの言葉か。
きっと両方だ。私は右手にある、緑の細長いビンを見下ろした。
緑色の向こうに透けるのは、一通の手紙。
これが何を私にもたらしてくるのだろう。何かがあるかもしれない。何もないかもしれない。
けれども、これが、はじまりなのだ。
私はそれをぎゅ、と握り締めると、海へ向かって大きく振りかぶった。