2.温度
「所長、今朝頼んだコピーはどこに行きましたか?」
僕がついたため息が、妙に手狭なこの部屋に響いた。
このご時世に、古ぼけた木の床。どこから拾ってきたのか分からないスチール棚には、乱雑にファイルが積みあがられている。さらに床には雑多な種類の本が、まるで塔のように積み上がっていた。
それがここ、古川探偵事務所のオフィス。
「……んー……」
様々な本とファイルで一杯の部屋の一番奥から、あまり気の無い返事がする。
その周りは僕がいる所よりも遥かに多くの本で視界が遮られていて、そこに所長がいるのかどうかすら分からない。
だがそこは、少なくとも一週間前に掃除したばかりなのだ。
僕はかなりの時間と労力を費やして、所長の常に気の無い返事を背後に、おそらく彼女が読まないであろう本達をダンボールの中に詰め込んで隣の倉庫に移した筈だ。さらに言えば、僕が綺麗にファイリングしたファイルも、きちんと時系列にスチール棚に並べて、古いものはまたダンボールに詰めて隣の倉庫に入れた筈だった。
そしてその時は、僕の仕事っぷりを珍しく所長は褒めてくれた。なんせ部屋の広さが二倍、三倍にも広くなったからだ。
彼女はとても上機嫌だった。
上機嫌で、彼女が一番嫌いな浮気調査を僕に押し付けてきた。
そして、一週間、いや三日間程僕が浮気の調査で出張していた間に、再び部屋の広さはこうして元へと戻ってしまったのだ。
そこまで思い返して、僕はまたため息をつく。どうすれば、あんなに綺麗に整頓したのに、ここまでも本が並ぶのだ。新しく買ったのか? それとも隣の倉庫から引っ張り出してきたのか?
おそらく、その両方だろう。
僕は飛び石を渡るように、ひょいひょいと本の塔の中にある隙間を歩いていく。昔はよく本を倒したが、今は慣れたもので、すっかり隙間を見つけるのが上手くなってしまった。それもまた悲しい気がするが、あまり深く考えないことにしている。
ひょいと隙間を抜けると、ようやく所長の姿が見えた。
今朝見た時と変わらず彼女は、新聞を読むことにご執心だ。頼んだコピーは、僕が置いた所から一ミリたりとも変わっていない。
ちょっとした事情で僕がここに就職する事になった時、まず部屋の汚さに驚いた。一体どんな人間が住んでいるんだ、と思ってみたら、思った以上に美しい女性が所長で驚いた。
そしてさらに仕事への情熱の無さに驚き、僕以外に所員がいないことには驚かなかった。
僕と所長では、何もかもが正反対だ。
そこにあるのは、著しい温度差。いまやすっかり、上司と部下が入れ替わってしまったみたいだ。
僕は所長の働きを諦めてその書類を手に取ると、身体を捻ってコピー機の蓋を開く。
無機質なコピー機の音がその部屋に響いた時、ようやく所長が新聞から顔を上げた。ちらりと新聞に目をやると、それはどうやら一年前程のもののようだ。
「ねえ圭君」
「なんですか?」
僕がコピー機から吐き出されてきた書類を手に取ると、所長はずい、と今まで読んでいた新聞を押し付けてきた。
「君はこの事件に関して、一体どんな意見を持つだろう?」
所長の言葉遣いは、どこでどうしたらこうなるのか、不思議な言葉遣いだ。推理小説の読み過ぎに違いない。
僕は押し付けられた新聞の記事に目を落とした。
そこには、一年前に起きた事件の概要が書かれていた。いかにも所長の好きそうな、殺人事件ものである。
「どうって……、犯人は、自分の一家六人を殺害、重傷を負わせ、現在逃亡中の模様、これに書かれている事が全てじゃないんですか?」
僕が当たり前のように事実を読み上げると、たちまち所長の眉が跳ね上がるのが分かった。事務所にやってきてから一歩も動かなかった彼女が、思い切り立ち上がる。
「ちょっと圭君。こっちへいらっしゃい」
それだけ告げると、彼女は僕の前で、ひょい、と華麗にステップを踏んで歩いていった。彼女は恐らく僕以上に体力も、運動神経もあるだろう。それをもっと違うところに発揮すれば良いのに、と思う時があるが、まあ良い。
所長のお呼びなので、仕方なく僕も所長に付いて行った。彼女はいつも僕達がミーティングに使う机にどかり、と座る。
僕はその途中で、辛うじてある平らなスペースに置かれているコーヒーサーバーから二人分のコーヒーをカップに入れた。そしてカップを手に、彼女の向かい側に座る。
彼女は新聞をばさり、と開くと、おもむろに話し始めた。
「いいかね、この事件は、三人の兄妹がいる所がミソなんだ。この一家の二人の職業は?」
「えーっと、……そうだ、教師でしたね」
僕は答えながら、一年前の記憶を辿っていった。確か一年前は、彼女は違う事件に熱中していて、僕は相変わらず彼女の嫌いな浮気調査の結果報告を作りながら、もはや年代もののテレビを見ていたのだった。
その時の犯人の両親は、既に殺害されてしまっていた。生徒たちが涙を流しながら、テレビ局のインタビューに答えている様子が流れていたのだ。
「そう、つまり教師って事は、おそらくこの家は厳格だった、という事だ」
所長がいつに無く熱弁を奮うのを聞きながら、僕はコーヒーへと手を伸ばした。
僕と所長では、いつも氷と蒸気程の温度差がある。
けれども、こうして事件に熱中する時だけ僕が手にしているコーヒーのように、二人とも熱い温度になるのだ。
そう、それが従姉妹の姉と僕で構成されている、古川探偵事務所なのである。