3.好奇心
そのお店の横は、丁度通勤に使う道だった。
私は珈琲や紅茶が好きだったので、そのお店をいつも横目でちらりと見ながら通勤していた。通り過ぎていくたびに、そこは一体どんなお店なんだろう、と凝視する時間が増えていく。
その喫茶店は、こげ茶の扉が目立つ、小さなお店のようだった。どうやら店内は縦に細長いらしく、幅の狭い灰色の壁にひとつだけ設置された窓には、地面から伸びた蔦が張り付こうとしている。
そしてこげ茶色の扉の横には、ぽつんと、申し訳ない感じに看板が置かれていた。
「喫茶店 麗」
そこには、黒字の看板に白い色の文字で、味のある文字が連ねられている。
そして休日の今日。私はついに意を決してこの喫茶店の前に立っていた。こげ茶の扉に手を掛けつつ、最後の勇気が出せずにしばらくの間、躊躇っている。
「入らないの?」
「ヒッ!」
私がこげ茶の扉と睨めっこをしている時、唐突に声を掛けられて私はそのまま飛び上がった。全く準備が出来ていなかった心臓が、ばくばくと鳴り響いている。
心臓を宥めながらそろそろと振り返ると、そこには青年の姿があった。私が見上げる程に長身の、すらりとした身体を持つ彼は、右手に一冊だけ文庫本を持っている。
青年は、きょとんと首を傾げて、もう一度同じ言葉を発した。
「入らないの? 俺も次に入るんだけど……」
「いえ……初めてだったもので……」
挙動不審のまま、私は何とかそう答える。どうやら意味が通じたらしく、青年はにこりと柔和に笑った。
「そっか。ここ、一見さんお断りな雰囲気があるもんね」
「……はい……」
私は小さく頷いた。彼は後ろから手を伸ばすと、躊躇無くこげ茶の扉を開いて中に入る。ちりんちりんとドアベルが可愛らしく鳴り響いた。
「功、お客さんだよ」
彼は薄暗い店内に向かって声を掛けると、行こ? と私に微笑んで、中へと入っていった。青年に後押しされた私も、恐る恐る中へと足を踏み入れる。
店内は、扉と同じ位の濃いこげ茶で統一されていた。縦長の店内に合わせるように、カウンターも縦長にしつらえられている。向こう側にも窓があり、お店の両側の採光と、やや薄暗い照明で、辛うじて本が読めるほどの明るさになっていた。
「お前、自分の事をお客さんだと思って……」
カウンターの奥から、低い声が滑り出してきた。そこにはカップを拭いている男性の姿がある。男性は、私が予想していた以上に若かった。もしかすれば、カウンターに腰掛けようとする青年と同じくらいの歳かもしれない。
男性は、私の姿を認めると、驚いたように言葉を切った。そして、少しだけ柔らかくなった声で、いらっしゃいませ、と告げる。
「俺、ちゃんとお金払ってるんだけどなあ……。お客さんだと思われてないなんて、ショック」
青年はそう呟きながら、よいしょ、とカウンターに腰掛けた。文庫本を机の上に置くと、入り口に突っ立っている私を振り返る。
「座らないの? よければ、隣に来ない?」
「あ、はい」
私は彼の言葉に我に返り、青年の隣へと足を運んでいた。
「ミツキ、お前にしては珍しい事をするもんだ。ナンパか?」
「違うよ。お店の前で、入ろうか悩んでいたから声を掛けたの。やっぱりさー、もう少し入りやすくするべきだと思うんだけど」
二人は、私がカウンターに腰掛ける横で、好き放題に意見を言っている。二人は友人なのだろうか。
「別に集客を目指している訳じゃないから、良いんだよ。はい、こちらがメニューです」
功と呼ばれた男性は、ミツキと呼ばれた青年に投げやりに返しながら、メニューを取り出した。そしてにこりと笑みを見せながら、丁寧にメニューを渡してくれる。
「功ぉ。俺も一応お客さんなんですけどぉ」
「お前には必要ないだろ。で? 今日は何にするんだ?」
功はミツキの言葉をさらりとかわす。ミツキはこれ見よがしにと眉をひそめてみせながらも、どこか楽しそうな表情を見せていた。
私は二人の表情を横目に伺いつつ、渡されたメニューをゆっくりと開いた。そこには、思った以上の珈琲や紅茶の種類がある事に驚いた。確かに、功の後ろの棚には、幾つもの珈琲の豆や、紅茶の茶葉の缶が並べられているから、かなりのこだわりがあるのだろう。
「今日はダージリンが良いな。ケーキのおすすめは?」
「あ、そうだ、この日にとっておきのケーキがあるんだよ。よろしければいかがですか?」
功は何かを思いついたようにそう言うと、ミツキだけでなく、私にもそれを尋ねてきた。私はおすすめなんて分からないから、ひとまず頷いて、珈琲のブレンドも一緒に頼むことにした。
功はひとつ頷くと、目の前で手品のようにお湯を入れる。ポットのお湯をフィルターに通すと、たちまち喫茶店内に珈琲の良い香りが漂ってきた。何だかその匂いだけで幸せな気持ちになる。
そうして待っていると、私の前に、白いカップと、大きめのケーキが運ばれてきた。
「あら……これはシフォンケーキですか?」
そのふんわりとした生地を見て、私は功に尋ねる。そのふんわりとした生地は、何を使ってあるのかピンク色で、添えてある白い生クリームが、まるでお化粧しているみたいだ。
「ピンク色のシフォンケーキなんて可愛いね。何を使ってるの?」
隣に紅茶を置かれたミツキも、珍しそうに自分の前にあるシフォンケーキを眺めた。功は得意げに笑う。
「桜だよ。丁度いいだろ? お互いの出会いを祝して」
なるほど。それを聞いた私は、もう一度それを見つめた。
珈琲の匂いが漂う店内で、可憐な佇まいを見せる、桜のシフォンケーキ。
それは、好奇心で一歩踏み込んでみた、新たなる出会いの記念。
そのシフォンケーキは、何だか優しい味がした。