10.迷子



 ランは、その場に座り込み、膝を抱えて蹲っていた。周りには幾重にも、コンクリートの瓦礫が零れ落ち、その場の荒んだ気配の一端を担っている。
 彼女の目の届く範囲には、誰もいなかった。だが彼女は、そこにうっすらと漂う、幾重もの殺気をひしひしと感じている。
 それは私が、ここの女王だから。
 それを数年にもわたって、痛いほどに感じてきたランは、僅かにその殺気に身じろぎした。そうして、その考えを頭に浮かべた途端に、心の奥底でもうひとりの自分が叫び声を上げるのが判る。
 私はどうして、ここにいるのだろう。
 私はどうして、女王なのだろう。
 こんな子供で、頭を使うことしか能が無くて。そうしてこの世界を生き抜くのに何よりも必要な能力、戦う力なんて皆無な私が、どうして今、皆を統べているのだろう。
 私は女王なんかにふさわしい人間では無い。何故ならば、私は今もこうして、誰かが助けに来てくれるのを待っているのだから。
 ランのその考えを読み取ったかのように、彼女の頭上にふ、と黒い影が差した。その影が現れたのはほんの一瞬で、後は何事もなかったかのように過ぎていった。
 だが、影が現れた変化は如実に現われていた。僅かに顔を上げると、目に飛び込んでくるのは、相変わらず殺風景なコンクリートの景色。そして、蠢く殺気をひしひしと肌に感じる。
 その視界に、ふわりと黒がひらめいた。それは視界の上部から時間にしては早かったのだろうが、それでもゆっくりと、ランの前に舞い降りてくる。
 それと同時に、あちこちからとぐろを巻いてこちらへ届いていた、あのひしひしとした殺気が一瞬で消え失せる。あちこちから聞こえてくる呻き声が、その黒が何をしたのかを遠目に現わしていた。
「……ナーク」
 ランは、目の前にふわりと舞い降りてきた黒へそう声をかけた。黒――ナークは、ランの言葉にくるりと振り向くと、彼女の目線まで、自分の目線を下げる。
「大丈夫? ひとりだって聞いて、さすがの俺も肝を冷やしたよ」
 苦笑混じりの声音で優しく言われて。ランの心がきゅ、と縮むような思いをするのを覚えていた。
 ランは何も言わず、ナークの黒い袖をそっと掴む。静かに近寄ると、いつもと同じ彼の佇まいからは、濃厚な血の匂いがした。その匂いに、余計に心がぎゅうと縮むのが分かる。
「……ラン?」
 何も言わない彼女を不審に思ったのか、訝しげにナークが問うてきた。その問いにも答えを返すことができないままだ。
 彼女は知っている。彼が本当は血の匂いが嫌いな事を。彼が本当は、誰かを殺すことが嫌いな事を。
 それでもナークは、ランの為になると、躊躇いなくその体を血に染めるのだ。
 私は彼の本当に嫌な事をさせてまで、守られるような大層な人間なんかじゃないのに。
「……分からない」
 だからそれが、気がつけば言葉になって現れていた。ランの言葉にきゅ、と首を傾げたナークを見上げて、ランは滔々と言葉を紡ぐ。
「分からない。どうして私はここにいるのか。私は本当に、この立場のままで良いのか。分からない」
「……ラ」
 彼女の言葉に、何か言い掛けたその言葉を遮って、ランは喉から振り絞るようにして声を発する。
「分からない。私はナークの嫌いな事をさせてまで守られるような、そんな大層な人間じゃないのに、どうして私はここにいるの……?」
 ナークはランの言葉に、僅かに目を大きく見開いていた。そうしてそれからその目を細めて、そっと、右手をランの頬に滑らせる。
 ぴくり、と彼女の体が動いていた。
「ランはそんな事考えなくたって良いんだ」
「……」
「僕等は、他の誰でもないランがいるからこそ、こうしてここに集ってるんだ。だから、ランは自分の事だけ考えていれば良い」
「……でも……」
 ぽつりと呟いたランに、そうして小さくナークは笑ってみせた。
「良いんだ。ランはランのままであれば良いんだ。幾らだって悩むことがあれば悩めば良い、迷うことがあれば迷えば良い。――それがランの意思なのだから」
 そうしてそっと頭を撫でてくれた彼が見せる笑みは、どこまでも澄んでいて、そしてどこまでも確固たる、笑みだった。