第六話 真実へ、一歩

 ざばり、と彼らの背後では水がこの前と同じように流れていた。川の上で船頭は船を巧みに操りながら、心配そうな声音を出す。
「本当にもう動いても大丈夫なんですかい?」
「ええ」
 おかげさまで、とにこりと笑みを浮かべる秋揮の顔には、嘘が含まれているようには見られない。確かに未だ傷は完治してはいないし、歩く度に痛みは感じるものの、おそらく自らでの見解では、このまま旅を続けながらでも治るとの見込みが示されていた。
 そして何より――。秋揮はぼんやりと頭の隅で川での事を思い返しながらも、船頭へ軽く頭を下げた。
「それじゃ、本当にお世話になりました」
「いやいや、気にしないでくださいな」
 船頭はこのくらい大したことでは無いと、にこにこと手を振っている。おそらくこのような事は、結界に守られていないこの場所では日常茶飯事に違いない。秋揮は前を向くと、二人を促して進み始めた。後ろでざぱり、と再び水音が響き渡り、おそらく船頭が元の位置へととって返したのだろう、などと考えた。
 陸羽へと進む小道へと足を踏み入れる。その周りは、隣の国を出る時と同じように、鬱蒼とした木々によって隠されているようだった。その中を周りに気を遣いながらゆっくりと進んでいく。
 隣を雪乃が、そして僅かに後ろを頼喩が歩いてきていた。雪乃はもうそろそろ関所が近付いてくるともあってかどこか不機嫌とも取れる仏頂面であったが、頼喩は国の外が珍しいのか、鼻歌交じりに周りを見渡していた。
「陸羽では、どんな暮らしをしていた……んだ?」
 秋揮は一瞬、丁寧語で話すか悩みつつ、だがもう既に身分がこの二人に知られている今いつまでも猫を被るのも可笑しいと思い、普段の口調で話す事にした。頼喩は秋揮の言葉に、ふんふんと上機嫌に歌っていた鼻歌を止め、きょとんと彼を見返す。
「そうですねぇ。まあ僕の場合は普通の方とは少し違った生活ですから。どちらかと言えば、雪乃さんと似たような生活をしていますねぇ」
「……はぁ……」
 雪乃が元々呪術師として以外にも、夜の仕事を営んでいた事は知っていたのだが、いまいち頭に浮かんでこない。その様子に、雪乃が初めて、仏頂面だった表情を崩した。
「ふふふ」
「……何、ですか……?」
 雪乃が突然含み切れなかった笑いを零す。どうして雪乃が笑いを零すのかが分からなくて戸惑いを向けると、後ろからも吹き出すような笑い声が聞こえた。
「え? え?」
 どうして二人が笑うのかが分からなくて、秋揮は途方に暮れるしかない。一通り笑ってようやく落ち着いたらしく、だがそれでも、頼喩が面白そうな声音のまま、話してくる。
「秋揮さまって、未だに雪乃さんには敬語を使われるんですね」
「え? ……あー……」
 頼喩の指摘に、秋揮は先程の会話を思い返して、そうして二人が笑った理由に思い至る。仕方があるまい。秋揮は城に上がってから、ほとんど男所帯の中で過ごしてきたこともあって、苦手なものを第一に上げると女性がくるのだから。
「今時、珍しいですよ。白拍子の仕事があまり頭に浮かばない将軍さまなんて」
「ほんとですよ」
 二人の言葉に、秋揮はう、と一言喉に言葉を詰まらせたまま、止まってしまう。それは常々自覚していたし、越では周りにも言われてきた事だ。城に白拍子達が呼ばれた時も、または同僚達が城下町に連れ添って遊びに行くという時も、秋揮はそれとなく断ってきた。後からそれが星虎に見つかって、彼からは呆れた目線を送られた程だ。
 反論の言葉を見つけられず、黙り込んだまま歩いている秋揮に、再び二人の笑みが飛ぶ。

 秋揮はしばしの間、恥ずかしさのようなものを抱えて歩くことになった。




「僕は今は、一応都に仮住まいの家があって、そこを拠点にあちこちへ足を伸ばして仕事をしてます」
 ひとしきり笑い終わった後、ようやく頼喩が最初に秋揮が聞いてきた言葉を話してくれた。
「白拍子が呼ばれている茶屋などで、歌う事がほとんどですね。時折、お屋敷や城などに呼ばれて歌う事もあります」
「ああ……なるほど」
 頼喩の後半の言葉には覚えがあったので、ようやく秋揮もひとつ頷く事が出来た。季節や何かの行事の折に、歌い人を自らの屋敷や城に呼ぶ事はよくある事だ。特に王の城で呼ばれる歌い人達は、その国でも屈指の歌い人である事が多い。秋揮も、公式の行事などでその声を聴く事はあったが、どれも素晴らしい声であった事を思い出す。
「まあ、国が違っても、文化まで大きく変わる事もありませんから。こんな感じです」
「そうだな」
「……ところで、お聞きしたい事があるのですが」
「……何だ?」
 今まで質問に答えていた側が突然質問を引っ提げてきたので、秋揮は思わず後ろを振り返った。そこには相変わらず楽しげな様子を見せている頼喩が歩いている。だが彼の目が輝いているように見えたのは、秋揮の気のせいだろうか。
「信越とは、どのような所なのですか?」
「……どのような所、といっても、おそらくお前も聞いている通りだと思うが」
「ではやはり、刀鍛冶を営んでいる店が多いのですか?」
「そうだなぁ……」
 秋揮はこの前出てきたばかりの、自らが住む都を頭に思い浮かべる。それにしても、他国の者も知っているであろう、当たり前の事を話しているつもりなのだが、頼喩はそれを食い入るように聞いている事に驚いた。
 ざわざわ、と森があちこちで囁いている。念には念を入れて周りに気を遣ってはいる。
 そのせいかは分からないが、今の所、三人へと襲いかかる妖の姿は見られない。
「まあ、他の国よりかは多いだろうな。城の奴等が持っている刀も、全部城下町で賄えているからし」
「そうなんですかぁ……」
 頼喩は秋揮の言葉を頭に思い浮かべようとしているのか、空にその目線を彷徨わせていた。秋揮はその様子に、僅かに首を傾げた。
 確かにそれなりの職業に就いてない者は、とんと国外には疎いのが通例だ。けれども一旦の歌い人が、ここまで他の職業の者が使う道具――刀に興味を持つのは少し違和感を感じるのだ。
 どうやら彼は、越にかなりの興味を持っているらしい。
「そんなに信越が気になるか?」
「え? ――ええ、まあ」
 思った事を素直に口に出してみると、途端に頼喩が口ごもる。歌い人は大抵、人とのお喋りにも長けている場合が多いから、もしかしたら特に意味は無くとも、たまたま口をついて出た言葉なのかもしれない、彼の反応に秋揮は心の内でそんな事を考え直していた。
「まあ、僕にとっては信越は――憧れのようなものでしたから」
「え?」
 だから、唐突に彼が告げた言葉が秋揮には意外で。思わず振り返りそうになった時、隣で雪乃の声が上がった。
「あ、関所が見えてきましたよ」
「本当ですね!」
 濃厚な呪術の気配に顔を顰める彼女とは裏腹に、森の木々が開けて、新たな光景が目の前に広がってきた事に頼喩ははしゃいで秋揮の横を駆けていく。
 秋揮はそれを眺めて、小さく息を吐いた。