ゆっくりと開かれた瞼の下にある瞳は、茶色をしていた。秋揮はじいと彼の行動を眺める。青年は幾度かぱちりとその瞳を震わせて、状況確認に務めているようだった。
目が見えた事で、顔のつくりがしっかりと見えるようになる。
随分と、線の細い男だ、と秋揮は始めに彼の表情を見てそう思った。その面も、瞳に浮かぶ光も、どこか細く儚げだ。向こうで料理を手伝っている雪乃も、白拍子という職業柄か、どこか細いものを感じさせる。だがそれでも彼女は、身の内に呪術師というもうひとつの職業の色を飼っている。黒く、太いそれ。
だが、そういった色も見ることは出来ない。おそらく本当に、彼は秋揮が普段接しているような戦いに縁は無いのだろう。
しかし、それならどうしてひとりでこんな、危険な国境にいたのだろう。秋揮の考えは、それに帰結していた。
「……あ、れ……?」
青年の口から、困惑した響きの言葉が零れ落ちていた。秋揮は彼の口から零れ落ちた言葉の声音を聞いて、目を見開く。彼の職業が、その声音から一瞬で感じ取る事が出来たからだ。
彼は、おそらく、間違いでなければ歌い人だ。それも、自分が本来勤めているような、上級の城に出入りするような。
歌い人とは、文字通り、歌を生業にする人々の事だ。雪乃のような白拍子と組んで歌と舞を披露することもあれば、時折手紙代わりに使われる短歌を作ることもある。この地域で「歌」と呼ばれる、ありとあらゆるものを日々の糧として生きる人々だ。
大抵、歌い人は世襲が多い。そうして小さい頃から歌を作る腕を磨き、喉を鍛えていく。その為、一声聞けばたちまち歌い人と分かるような、美しい声を歌い人は手にしている場合が多い。
秋揮の目の前に横になっている青年もまた、常人とは違う響きの声をしていた。その声を聞いて初めて、彼の儚さが消え失せたような気がする。代わりに彼が持つ、芯の強さのようなものが秋揮の目に、はっきりと見て取る事が出来た。
青年は困惑した表情のまましばらく天井を見つめていたかと思うと、秋揮の存在に気がついたらしく、横へと顔を向けた。
秋揮が黙したまま彼を見ているのに気がつくと、彼は余計その顔の表情を戸惑いに変える。
「……あの……僕は一体……?」
その言葉に、秋揮は僅かにどう切り変えそうか逡巡していた。そうして、ゆっくりと口を開く。
「あなたは、どうやら国境外の道に倒れていたそうですよ。……覚えていませんか?」
「……国境? ここは陸羽では無いのですか?」
青年は秋揮の言葉に、目を瞬かせた。秋揮もまた、青年の言葉に、眉根を寄せる。
「とすると……あなたは今まで陸羽に?」
青年は、戸惑いながら小さく頷いた。
「ええ。確か僕は、買い物の為に街を歩いていた筈だったのですが……そこまでしか今は思い出せなくて……」
「そうですか……」
これはどうやらまたひとつ、情報が手に入ったようだ、と秋揮は小さく息を吐いた。
青年は自らを吉屋頼喩(よしやらいゆ)と名乗った。秋揮の予想通り、歌い人を生業としているらしい。
「では、小さい頃から?」
素朴な木の椀に、この辺りで取れた食材を使った鍋物をよそいながら、雪乃がそう尋ねた。おそらく白拍子として気になるのだろう。雪乃の問いに、頼喩は小さく頷く。
「ええ。僕の家は代々歌い人でしたから」
頼喩は床から半身を起こし、背中をくるりとまるめた布をあてがってその身体を支えていた。秋揮よりは怪我の具合はまだ良かったが、一般人にまだ床上げは辛いものだ。この四人の中で一番の重傷者である秋揮は、既に床から出て、囲炉裏の周りに腰を落ち着けている。
ぱちぱちと囲炉裏の火が爆ぜている。その刹那に浮かんだ橙の色に、秋揮はそっと目を細める。
「それにしても」
雪乃は今度は秋揮に目を向けながら、小さくため息を吐いた。その表情には多分に呆れというものが含まれているように感じられる。
「本当に秋揮さまは起きていて大丈夫なのですか?」
「え? ええ、寝ていてもやる事ないですし」
突然問いが回ってきた秋揮は、きょとんと目を丸くして、それから首を傾げた。その反応に、雪乃はまた大きく息を吐く。
「あのですね、怪我人は寝て治す事が世間一般の認識なんですけどね」
「はは、違いねえ」
秋揮の反対側に座っていた船頭は、雪乃の言葉にからからと笑い声を上げていた。
「笑い事じゃないんですよ?」
雪乃はむっつりと頬を膨れさせながらそう返した。船頭の笑い声に怒りを覚えたのだろう。
「まあまあ、私の場合は、そのように訓練されていますから。このくらいは動きながらでも治せます」
「まあ……それはそうだと思いますけど……」
雪乃は未だむっつりとした表情を変えないままだ。自分の発言の何が気に障ったのだろうと秋揮は心の中で首を傾げる。しかしいくら推測したとて、極端に女性と縁が無い彼にとって、正解を探り当てることは不可能だ。秋揮は疑問符を頭に浮かべたまま、茶碗を手に取った。その茶碗からは、麦飯がほかほかと白い湯気を立てている。それに手を付けたのを見てか、船頭が秋揮の方へと視線を向けた。
「いやいや、旦那のようなお立場の人に、麦飯なんか出してしまってすいませんね。生憎これしか今は用意できなかったもので」
「……いえ」
秋揮は目を閉じて、緩く首を横に振った。越の王城に仕える者達の中には、船頭が言っているように、立場にふさわしくない、と言ってこういった食べ物を拒否する連中もいる。だが秋揮は、そういった事には無頓着な質だった。武官でもあるかだろう。そもそも、王からして無頓着であるのだから。
「あの……」
その言葉に、久々に越の事へと思いを馳せていると、彼等が座っている場所より幾分離れた所から、おずおずと声が上がった。秋揮がその声に応えてくるりと後ろを振り向くと、頼喩が彼専用に作られた、粥の入った椀を手にしながら、眉根を僅かに寄せている。
「どうしました?」
「先程からお話を伺っていると……橘さまはどうやら、位の高いお方のようなのですが、失礼ながら、どちらのお方なのでしょうか?」
「ぐほっ!」
秋揮はその言葉に、思い切り喉へと流しかけていた麦飯を詰まらせそうになった。喉に麦飯が引っ掛かり、おかしな咳を何度も繰り返す。
「あらまあ、大丈夫ですか?」
雪乃が秋揮の反応に、目を瞬かせながら、手元に置いていた急須から湯を注いで、秋揮に手渡した。秋揮はそれを受け取り、茶を喉へと流し込む。それはするりと喉の中を通り、僅かに秋揮を落ち着かせていた。
「ごほっ、ごほごほ、……ああ、死ぬかと思った」
秋揮がそうして人心地つくと、茶碗を傾けて麦飯をかき入れていた船頭が、明らかに面白がっている表情を浮かべる。
「ほんとに、旦那は変わったお人ですねぇ。ああ、このお方はですね」
「ちょ、ちょっと待て……!」
秋揮は船頭の言葉に不穏なものを察知し、彼の口を止めようと声を張り上げかけた。秋揮としては、これでも一応身分を隠して旅をしているつもりだったからである。そもそも、ただの傭兵としての仮の身分を持っていたはずなのだ。
今となっては簡単に剥がれ落ちてしまっているような気がしてならないが。
だがその精一杯の秋揮の思いは、たった一瞬で、あっけなく砕け散る事になる。
「別にそんな隠すものでもないでしょうに。このお方はですね、越の将軍さまなんですよ」
「ちょっとおぉぉッ?」
秋揮の必死の静止も叶わず、船頭は朗らかに頼喩に身分を明かしていた。口に入れていた麦飯の一部が、口から飛んだような気もするが、そんなことに構ってはいられない。
「え?」
秋揮の身分を聞かされた頼喩は、ぽかりと口を開いて一言発したまま、固まってしまった。その反応に、秋揮の頭ががっくりと力を失う。
その隣では、雪乃が些か同情の念を含んだ眼差しで、秋揮を見つめていた。彼女は黙ったまま、そっと茶を差し出してくる。
秋揮は力なくそれを受け取り、ゆっくりと口に含んだ。再び喉を通る温かい茶。確かにそれは気持ちを落ち着けてくれるが、先程とは全く違う状況に、秋揮はひとつため息を吐いた。
ようやく状況を理解したらしい頼喩は、たちまちその面を青白く変化されていった。
「そっ、そんなお方だとは知らずに……これはとんだ」
「ああ、良いです、良いですよ、もう」
秋揮は半ば投げやりに、言葉を放った。それの動きが面白かったのか、船頭が再び気持ちの良い笑い声を上げていた。
「良いんですか? 秋揮さま」
雪乃が、どこか笑いを含んだ声音で聞いてくるのに、再び秋揮はひとつため息を吐く。
「……仕方ありません」
諦めるのは得意なんです、と秋揮はそう言って、力なく笑っていた。