ふわりと鼻に芳しい匂いが漂ってきて、秋揮は静かに目を開いた。最初に目に入ってきたのは、木の板目だ。少し黒く煤けたそれ。ぼうとそれを眺めて、その板が天井である事を知る。
 静かに身体を起こすと、その身体があちこち軋むような感覚を覚えていた。身体のあちこちから、痛みが奔ってくる。
「……あ、いて……」
 秋揮が思わず上げた唸り声に、彼の少し向こうに座っていたらしい雪乃が反応して、くるりと振り返る。
「秋揮さま。お目覚めになりましたか?」
「あ、ええ……」
 彼女の腕には桶、そしてその桶には手拭いが掛けられていた。それを眺めながら頭の中の記憶を反芻する。
 そうしてみて初めて、どうやら自分はあれから意識を飛ばしたらしいという事実を認識した。
 武官でありながら、何たるザマなのだ、と情けない気持ちが心の中を満たしていた。まるで二日酔いの時のような心持ちだ。
「いや、すみません。何だか色々して貰ってしまったようで……。武官なのに情けない」
 そうして小さく謝ると、雪乃は首を横に振った。
「いいえ。私こそお手伝いすると言っておきながらこれくらいの事しか出来なくて……」
 雪乃は秋揮の近くまで来て腰を下ろすと、桶を傍らに置いて、そして手拭いをぎゅっと絞る。ぽたぽたぽた、と桶に落ちていく水音が、妙に秋揮の耳には心地よかった。
「そういえば……怪我などはありませんでしたか?」
「私ですか、おかげさまで大丈夫ですよ」
 雪乃はきょとんと秋揮を見返してから、その顔ににっこりと微笑を浮かべた。確かに彼女の身体には包帯ひとつ巻かれている様子は無い。その事に、秋揮は心の中で安堵する。
「それにしても……」
 彼女は掛け布からはみ出ている、秋揮の左腕へそっと手拭いを落としながら、ぽつりと呟いた。どうやら左腕は手当てが済んだばかりのようで、まだ布が巻かれていなかった。左肩からは、一定の間隔を置いて痛みが奔る。いつもよりかは深い傷であるが、これくらいなら少し時間を置けば治るだろうという予想がされた。これくらいの傷で良かったものだ。これ以上傷が深ければ、旅を続けることも難しかっただろうから。
 手拭いの感覚が心地よい。ひんやりとしたそれが肩の周りを丁寧に拭っていくのを見つめながら、秋揮は雪乃の言葉に耳を傾ける。
「あれが、黒揚羽の一団なのですね」
「……おそらくは」
 雪乃の言葉に、秋揮はひとつ頷いた。彼女は秋揮の左肩を拭うと、桶の中に再びそれを入れた。ぱしゃり、と小さく水が揺れる。
「あの赤い糸は、明らかに黒呪術によるものでした。それも、かなりの高度なものです」
「そうですか。……かつて、揚羽姫は確かに黒呪術は学んでいましたが、あのような糸を用いる事は無かったので、判別がしにくかったのですが……」
「それはそうでしょう。あれは戦いで用いるような類のものではない筈です」
「……というと……?」
「詳しくは私にも分かりませんでした。ですが、あの術には、途方もない何かを感じます」
「……」
 雪乃が桶の手拭いをもう一度絞るのを見つめながら、秋揮は先程の女を思い出す。
 確かに、あの女からは途方も無い殺気に近い何かを秋揮も感じていた。それはひとえにあの女が発しているものかと考えていたのだが、そういう訳では無いという事なのか。
 そして、あの女が発したあの言葉。
(――)
 全てが口から零れ落ちる前に、秋揮が遮ってしまったから。それが秋揮が今、脳裏で考えているものと一致する訳では無いだろう。
 けれども、もし、それが一致するならば。その考えに自然、右手が震えるのが自分でも判った。
「どうかしましたか?」
 傷が痛みますか、と、おそらく秋揮の異変を感じ取ったであろう、雪乃が心配そうな顔を向けてくる。
「いえ」
 秋揮は静かに首を横に振ると同時に、その考えを頭から振り払った。そう、まだ今は考える時では無い。何よりその考えが一致したとして、自分が何をするという事も無いだろうから。
「――全ては、陸羽国で情報を集めてからですね」
「ええ」
 秋揮が静かに告げた言葉に、雪乃も小さく頷く。
 そうして二人の間に、静かな沈黙が広がった時だった。
 がらり、と秋揮の視線の先にある扉が開いた。そうして、そこから先程船を出して貰った船頭が姿を現す。
「おお、旦那、気がつきましたか。そりゃあ良かった」
 彼はからりと笑いを上げて、頭にしている笠を取った。だが、彼の片腕には、まだ青年と少年の狭間にいるような容貌の男が抱えられている。
「……その方は……?」
 秋揮の問いに、彼は片腕に抱えている男を床に下ろしながら、こう言うのだった。
「いや、先程向こう側へ渡る予備の船を引き出しに行く時にですね、道に倒れているのを見つけたんですよ。ほっとく訳にもいかないんでね」
 船頭は壁に掛けられている羽織をひとつ取り出すと、床に寝かせた男にそれを掛けてやっていた。男の顔は白かった。元から白い、というよりも、不健康な青白さだ。まるで血が足りなくて貧血が起きている時のような症状に似ている。
 そして、何よりも。男が着ている着物には、べっとりと赤黒い染みが広がっていた。
「――これは」
「あの、赤い糸によるものでしょうね」
 雪乃がそれを目にして、驚きに目を瞠る。秋揮は遠目でそれを冷静に検分し、ぽつりと考えを表に出した。
「どうやらこの近辺も随分と物騒になっちまったもんです。それにしても旦那、まさか信越の将軍さまだったとは。どうりで普通の傭兵さんとは違う筈ですね」
 船頭はそう言って、ひとつ丁寧に礼をする。彼の言葉に、秋揮は自然と苦笑を浮かべていた。
「まあ、少し訳ありでね。面倒なことに巻き込んでしまって申し訳ない」
「旦那が謝ることじゃあありませんよ。妖はともかく、あの女が仕掛けてくるのが悪いんですから」
 本当に物騒な世の中になったもんです、と船頭はちっとも困っていないような表情で笑っていた。そうしながらも動きを休める事無くてきぱきと動き、眠っている男に処置を施していく。上半身の着物を脱がせ、雪乃から手桶を受け取り、手拭いで丁寧にその傷を拭っていく。
 着物から現れた身体はひょろりとしたもので、秋揮は僅かに眉を潜めていた。秋揮も、国の軍ではかなり痩せているように見られるのだが、実は着痩せする質なのだ。両手で刀を操れるように日々訓練を怠らないその身体は、均等に鍛えられている。
 だが、目の前の男は、鍛えている風にはとてもでは無いが見えなかった。妖が多く出没するこの国境付近において、大した力も無く、ひとりでいるのは自殺行為に近い。
「……ひとりだったのですか?」
 果たして秋揮の問いの真意を船頭も理解していたのだろう、彼も首を傾げながら頷いていた。
「ええ。辺りも見回しましたがね、ひとり、ぽつんと倒れてるだけでしたよ。……何かひっかかりますねえ……」
 そう答えながら、彼はその痩せこけた身体に丁寧に布で傷口を覆っていく。その青年の血を多く抜く事になった要因であろうその傷は、秋揮の身体に今散らばっているものと同じように、糸が貫通したような、小さな穴だった。
「信越から彼等を追ってきましたが、どうやらあの赤い糸が、身体の血を抜いていく事に間違いはないようですね」
「そうですね」
「はあ、あんな輩がいるなんてねえ。おっかないですねえ」
 そうして布を巻き終え、もう一度掛け布を掛け直してやる。顔色は依然として悪いままだったが、既に出血も止まっているので、このまま寝かせておけば大丈夫だろう。
 船頭は秋揮へと視線を向けると、それにしても、と苦笑する。
「こっちの旦那よりも、あなたの方が傷は深いんですよ。もう起きても大丈夫なんですか」
「ああ……まあ痛いが、常に傷が深くても、いつもと同じように動けるよう、訓練しているからな。このくらいなら大丈夫だ」
「まあ、なら良いんですが。あんまり無茶はしないで下さいよ。幸い、今は船渡しの仕事も開店休業状態なんでね。好きなだけ休んでいってくださいな」
「すまないな。恩に着る」
「いえいえ。将軍さまのお世話が出来るなんて、光栄ですって」
 彼はそう言って、朗らかな笑みを見せた。その表情と言葉に、自然、秋揮の顔も緩む。
「それじゃあ、少し遅い飯にでもしましょうかね」
「あ、手伝います」
 船頭がそう言いながら、立ち上がって部屋を横切っていく。雪乃も手伝おうと立ち上がって、ぱたぱたと部屋の向こうへと歩いていく。
 それを身体を起こしたまま眺めていた秋揮の視線に、眦を震わせてゆっくりと目を開いていく青年の姿が入った。