「ッ――!」
秋揮は咆哮の声を上げていた。右足に今まで感じた事の無い程の衝撃が奔る。それと同時に、刀が川の中へと振り下ろされた。
ざぶん、という水音の後、刀が何か柔らかいものを貫く感覚が右手に残る。それと同時に、右足を苛んでいた激痛が僅かに引いた。ずん、という鈍い感覚と共に、刀に水圧が加えられる。
刀を川から引き戻した。ふと先端へと目をやると、刃の先端には、水で落ちなかった脂が僅かに付着していた。
水面に目を落とすと、少し離れた所で、妖がぐるぐると激しく動いているのが見える。そこから水面にたなびく、ひとつの紅。
血の色は赤なのか、と、この期に及んでどうでも良い事が頭に浮かんでいた。頭には、左肩と、右足からやってくる痛覚がほとんどを占めていて、碌に考える事も出来ない今において。
そして隣から聞こえてくる、異国の言葉。それは短い羅列を成して雪乃の口から放たれ、水面へと発散する。一瞬後、水中からぼこり、という音が聞こえてかと思うと、あっという間に澄んでいた筈の水面が灰色に澱んだ。
ざあざあと、この事態に変わる事無く流れる水音に、ぼこり、という鈍い音が響く。水面が僅かに泡立ったかと思うと、そこから激しい水しぶきが上がった。
陽に煌くそれの中に、鋭利な刃の欠片のようなものが混じっている。雪乃を見ると、彼女は今の呪術でかなり消耗したのか、肩を大きく上下させていた。雪乃はこちらを見て、に、と笑みを浮かべてみせる。
「水中から爆破を掛けてみました」
どうやら上手くいったみたいですね、と言って彼女は笑ったかと思うと、ころりとその表情を一変させた。
「秋揮さま、お怪我が……」
「――ああ」
その心配そうな表情に、一言返す事しか出来なかった。まともに考えも成せず、口調を取り繕う事も出来ない。
頭が痛みで揺れる。川に足を取られないよう、何とか立っているが、気を抜けば一気に押し流されるだろう。
「肩をお貸しします」
ふらりと揺れた彼を慮ってか、雪乃がざぶざぶと音を立てながら、こちらに歩いてこようとした。その時、頭上にふわり、と黒い影が浮かぶのに、彼女の足がぴたりと止まる。
上を通り過ぎる気配。秋揮は意識して呼吸をしながら、体勢を整える。雪乃も前を振り返り、さっと呪具を構えた。
ぴいん、と緊迫感が三人を襲う。
そんな二人の上を飛び越えて、ひとつの影は水面に静かに着地した。水しぶきひとつ立てる事無く、ゆっくりと水中へその足を沈める様は、あまりにも不自然だ。
その黒い着物を纏った人物は、どうやら身なりからしてみても、女のようだった。黒髪をひとつに結い上げたその姿は、今こうして対峙さえしていなければ、艶やかとも見る事が出来るだろう。
彼女は、無表情のまま、濁った水面に視線を送っていた。そしてゆっくりと視線を上に上げる。艶やかな赤い口唇が、ゆるりと開いた。
「……越の将軍、橘秋揮さまとお見受け致す」
その言葉に、痛みで感覚の無くなっていた頭が急速に回転し始めるのが分かった。右手に持っていた刀を振るって、構え直す。
彼女は、自分の事を知っている。将軍職にある、「橘秋揮」を。
「――そうだが」
押さえていた殺気を解き放ち、黒い着物の女を睨みつけたが、彼女はそれをものともしない様子でさらりと受け流したようだった。
「ご忠告致す。――貴方様のようなお方は、これ以上虎王に仕えるべきではありませぬ」
「何を――」
星虎の事を引き合いに出され、秋揮は冷えた声音を発した。同時に、自らに落ち着けと何度も言い聞かせる。
このような言葉は幾度も聞いてきた。小さい頃から――、そして今となっても。
(――お前、虎王の気に入りだからって、生意気になってるんじゃないぞ)
(もう少し気をつけた方が良い。貴方を落とそうとしている一派もありますよ)
(星虎さま。やはりあの者を傍に置くのはどうかと――)
自分を卑下されるのは痛くも痒くも無い。そんな事は日常の些細な事に過ぎないのだ、と何度も何度も言い聞かせてきた。
星虎の傍に在る事が出来るのならば、その他の全てを捨てる事が出来るのだから。
自分は彼のお陰で、今、ここに在る事が出来るのだから。
そうして秋揮は女の言葉を構えていたが、彼女は何故か戸惑うような仕草を浮かべた。その後、僅かな間を置いて、彼女は秋揮の考えとは予想外の事を告げたのだ。
「貴方様は将軍の地位で留まるようなお方では無い筈。我らはいつでも貴方様を歓迎致すのに……」
「……どういう、ことだ……」
予想外の言葉に、そして告げられたその意味に、思考が止まる。身体の中心から冷えていくのが、分かる。
「城に火を放った時の貴方様を拝見し、我ら一同は虎王に幻滅致しました。まさか貴方様があのように越で扱われていようとは」
その言葉の後に彼女は、唇を静かに動かす。
「――」
「黙れ」
彼女がその言葉を言い終わらない内に、秋揮はそれを遮る。
「その言葉は、この俺を越の将軍と知っての言葉だな?」
「――いかにも」
「ならば――幾重に渡る星虎さまへの狼藉、この橘秋揮が天誅を下してくれる」
秋揮はそう告げて、にいと笑みを浮かべた。
先程まで冷え切っていた筈の身体の中心が、開放を求めて歓喜している。
痛みも何もかもが、戦闘への興奮に変わる。動かない筈の左手が軽い。秋揮はその左手を懐に突っ込んでいた。
彼の動きを見てか、女の手から赤い糸が幾筋も生まれる。それは一瞬にして秋揮へと飛び、彼の身体を岩に縫いつけた。
同時に、背中に息を詰める程の強い衝撃が、襲い掛かってくる。
左肩、右肩、そして右腰、右足、左足。身体を動かすそれらを止める意志を持って、糸が突き刺さる。
だが何故かその時は、不思議と痛みを感じなかった。ただぶつり、と頭の中で幾つも何かが切れるような音が響き渡って、体中が燃えるように熱くなっただけだ。
懐に突っ込んだまま動きを止めていた左手を無理矢理動かす。ぶちり、と糸が切れる音と共に、鮮血がどっとあふれ出した。それに構う事無く、左手に掴んだ小刀を女へ投げつける。それはひゅう、と微かに音を立てながら宙を飛び、女の右肩の一部を切り裂いて川の中へ落ちていく。女に加えた衝撃で呪術は解けたらしく、ぷつぷつと糸が切れて川へ落ちていった。そして同時に鮮血も噴きだすが、何故だかその感覚が無い。
痛みの感覚だけでは無い。どうやら興奮以外の感覚は全て麻痺してしまったようだった。妙に視界が冴え渡り、水の中にいるというのに身体が軽い。
右手に握っていた刀を構え直す。動きを止めた女へ一歩、水の中を進む。
女は反撃しては来なかった。右肩を押さえながら、秋揮が向かってくるのをただ眺めているだけのようだ。
そして、にい、と再び彼女はその唇を吊り上げる。
「それでこそ橘さまというもの。我らはいつでも貴方様をお待ちしております」
そう告げたと思うと、彼女の身体は不意に水中へと潜り出した。まるで川底に穴が開いたかのように、するすると音も無くその身体は潜っていく。
「待て! くそっ」
秋揮はいつもよりか身体が動かしやすいとはいえ、今は水の中。跳ぶ事も走ることもままならない。
唇を噛み締めた彼の前で、ゆるりと彼女の姿は水の中へと溶けていくのをただ眺めるだけ。
彼女が消え、元に戻った川を眺め、秋揮はひとつ舌打ちをする。刀を納め、ざぶざぶと川岸へ向かおうとすると、後ろから雪乃の声が追いかけてきた。
「秋揮さま」
「ああ、どうした?」
感情が縺れているからか、いつものように丁寧な言葉で喋る事が出来ない。ゆるりと首を動かして彼女へ視線を向けると、何故か彼女はその表情をくしゃりと歪ませていた。ざぶざぶと足を普段より上げながらこちらへ歩いてくる。
「どうしたではありません、お怪我が――」
彼女の言葉を最後まで聞き取る前に、何故だか身体がぐらりと揺らいでいた。途端に身体のあちこちが軋みを上げる。
ふわりとその顔が上空を向いて、雲ひとつ無い青空が目に入った。眩しすぎる陽の光が、視界を白く染め上げていく。
ああ、今日はそういえば快晴だった。
「秋揮さまッ!」
雪乃が何故か悲痛な声音で叫んでいた。
一体俺はどうしたのだろう。何故彼女はそんなに心配しているのだろう。
そう思いを馳せたのを最後に、ぷつりと、意識が途絶えていた。
(――良いですか、――。決して父上を恨んではなりませんよ)
母が穏やかな表情で、涙を流している。彼女の手がゆっくりと動いて、自分の頭を撫でた。その手はいつも暖かい。その筈なのに。
どうして、恨まなければならないのですか。
どうして、母上は泣いているのですか。
ああ――泣かないで下さい。
私は恨みませんから。
だから――泣かないで下さい。
そんなに冷たい手をしていたら、風邪を召してしまいます。
だから――お願い、目を開いてください。
(どうか、どうか許してくれ。お前にこの道を歩ませてしまうことを――)
どうして、どうしてこうなってしまったのですか。
許しなんて請わないで下さい。
父上はいつだって、私の憧れなのです。
私は――僕は恨む事なんて一生しませんから。
だから――、一生のお願いです。
いかないで、ください。