妖が立てた水しぶきが、空に細かく散る。それは陽の光を浴びて、きらりと銀色に輝いた。
「うわぁ……」
秋揮はそこに現れた妖に、何の感慨も、感情も篭っていない声音でそう呟いていた。その声音には、やる気も感じられない。つまり、非常に面倒そうである。
それの外見は魚に似て、非なる形をしていた。
するりと細長い身体に、到底魚では考えつかないような鋭く、固い鱗。それは秋揮の手にある刀にも似て、太陽の光を受けて反射している。
そして、その顔につく、鋭い三白眼。魚にあるまじき、大きな牙。
何よりもその身体の一番の特徴は、両手足があるところだろう。ちょうど胴体部分からそれは生えている。短いくせに、鋭く長い爪があった。
「……気持ち悪い……」
後ろから、雪乃がそれを目にした感想を述べたようだ。確かにそれは、妖にしては奇異な身なりをしていた。確かに妖は動物とは多少違った形を持っているが、それにしてもこの妖の外見は、おかしなものがある。
「ありゃ、これは見ない妖だね。どこからやって来たのやら」
一番後ろで櫂を器用に動かしている男は、目を細めてそう呟いた。その口調は、暗にそれを揶揄するようにも取る事が出来る。
「……それは本当か」
「ええ、そうですよ。こいつを見るのは初めてだ。気をつけてくだせぇな」
「そうか」
秋揮はそう言うと同時に、刀を下段に構えた。そのまま流れるように、斜め左上に振り上げる。丁度そこに、妖が口の牙をぎらりと煌かせて頭から突っ込んできた。
鋼と鋼が打ち合う鈍い音がその場に響き渡る。
秋揮が放った刀は、顎部分へとぶつかり、見た目通りの固い手応えが返ってきた。そして、見た目以上の手応えも返ってくる。
「クッ……!」
普段、戦闘時に声を上げる事は滅多に無い秋揮の口から呻き声が漏れた。みしみし、と腕の筋が悲鳴を上げている。真上にあるその妖の目が、ぎょろりと秋揮を睨みつける。その妖の重さで、船がぐらりと左に揺れた。
このまま押されれば船ごと川の中へ持っていかれる。そうすれば、この妖の独壇場だろう。ここで押される訳にはいかない。
秋揮は安定しない足場の中、右腕に力を込めた。予想以上の力に、目の前が赤く染まるような感覚を覚える。頭がきいんと痛みを訴えてくる。
「は、あっ……!」
気合いが口から零れ出ると同時に、あまりの重さで動かなかった刀がみしみしと悲鳴を上げる右腕と共に動いた。それは左へと抜けると同時に、妖の身体も左へと吹き飛んでいった。
派手な水音が響き渡ると同時に、水しぶきが秋揮の身体に降りかかってきた。
「くそっ……! 何だ、こいつは……!」
左に刀を持ち替え、じいんと痺れが残る右腕を振りながら秋揮は叫んでいた。妖の重さが消え、船の動きが安定する。
「とりあえず、岸につけられる所まで粘ってください、旦那」
船頭はそう叫びながら、ぐいと船を動かした。船がゆっくりと、だが確実に反対側の岸へと動きを進める。
しかし場所が悪い。丁度川が傾斜を付けて下る場所に差し掛かったらしく、向こう岸は身長よりも僅かに低い、切り立った岩が並んでいる。これでは直ぐに船を付ける事が出来ない。
そうしている内に、ざばり、と水が流れる音に混じって、あの妖が水中を泳ぐ音が聞こえてきた。水面に目を移すと、澄んだ水の中で、ゆらりと鈍い体が水の流れをものともせず、こちらへ向かってくるのが見えた。
しゃらん、と雪乃が手にしている呪具が揺れる音がする。そして小さな声で呪を紡ぐ声がぼそりぼそりと響いた。
ふ、とその場に雪乃が放つ呪術の気配が満ちる。それは空気に似て非なるものだ。どちらかと言うと香に似ている感覚である。
彼女の言霊が呪具によって力に変換され、水面がばしゃりと不自然な動きを見せた。うねうねと水面の下で、水が凝り固まり、それが妖を絡め取ろうと動く。
網のようなそれは、半分ほど水面から水上へその姿を見せた。細かいその水で出来た網に妖は絡め取られ、水面に大きな水しぶきが飛ぶ。
妖はばたりと両手両足を動かしていたが、その鋭い爪で網を破る事が出来ないと知ると、顔の半分を占めている口を開いていた。
ぞろりと並ぶ歯が陽のもとに晒される。
「……な!」
再び盛大な水音と、雪乃が呆気に取られた声音で叫ぶ音が聞こえた。妖が差し出したその牙が、いとも簡単に雪乃が掛けた網を食いちぎったのだ。
術が切れた水が、水面へと叩きつけられ、水の珠が飛んでいた。それは今までに一番派手に、空中へと飛んでいく。
「水の術を断ち切るなんて……一体どんな牙なの?」
信じられない、といった感情を滲ませて雪乃はぽつりと呟きを落とした。その呟きに、船頭も首を捻っている。
「何か、怪しいですね。最近変な噂も聞きますしねえ」
「変な噂?」
こちらへと勢いをつけて泳いでくるそれに合わせるように刀を構えながら、秋揮は船頭へ問う。船頭は櫂を漕ぐ手を休めぬまま、そうなんですよ、と頷いた。
川は少し先で緩やかに右へと曲がっている。
「最近、呪術師かなんかが、妖に手を加えてるって噂ですよ」
船頭がそう言うのと、妖が船の横腹までやって来たのはほぼ同時だった。秋揮の脳内では驚きが多分に占めていたが、今はそれを表現している場合では無い。
鱗や身体部分は固く、刃が通らない。だから唯一の急所だと思われる目を目掛けて、その刀を直下に突き刺そうとした。
だが、その妖の動きも素早く、当たりが目の僅か端にそれてしまう。が、と鈍いような、鋭いような手応えと同時に、つるりとその刃が滑っていく。
秋揮は手に返って来る反応に、思わず舌打ちしていた。勢いがついた刃は、大気よりも強い抵抗を受けながらも、その刃のほとんどを水の中に沈めてしまう。
秋揮は左腕で刀を水中から引き抜き、それをもう一度手元に構えるのと、船の横腹に強い衝撃が加えられるのはほぼ同時だった。
「くっ……!」
船頭が傾いた船を立て直そうと、川底へ櫂を突き刺す。みしり、とその木片は嫌な音を立てながらも川底に立っていた。だが重量だけでもかなりのものになるその妖は、自分の体重を使い、じわりじわりと船を傾けていく。ぐらりと船が木の葉のように揺れていく。
雪乃が再び呪を唱えた。意味を成さない音の羅列が空中へとばら撒かれる。対岸の、川原がもこ、と盛り上がった。そしてひゅ、という小さな音と同時に、川原の石が幾つか、勢いをつけてこちらに飛んでくる。
それは一回水面についたかと思うと再び飛びあがり、そして妖へ向けて急降下してきた。秋揮もすぐさま反撃に出られるように、疲弊していない左手で刀を持つ。
その時、秋揮が渡る方の川岸に不穏な気配が突出し、彼は刀を振り下ろす前に首をそちらへ傾けた。
「――まずい!」
彼が振り返ってそこにあるものを見るのと、船頭が焦りを帯びた声で叫ぶのはほぼ同時だった。
ゆらりと羽織られた、黒の羽織り。その裾がゆらりと揺れるのが、秋揮の目に入って。
人、か――?
秋揮が対岸に人がいると認識した瞬間、そこから殺気が膨れ上がった。
そして、ぴ、とどこかで聞いた事のある音が響く。
「え……?」
刀を持つ左肩に、小さな違和感を感じる。ぷつ、とまるで針が刺さったかのようにその違和感は唐突に沸き起こった。じわりとその違和感は熱へと取って代わる。その熱は、中心からじわじわと広がっていた。
左肩に目をやると、そこにはどこかで見た事のあるものがあった。
それは――赤い、糸。
秋揮がそれを認識した時、ばき、と軽い音が響く。船頭が手にしていた櫂が、ついに妖に押されて折れたのだ。支えを無くした途端に船は妖の力によって、一気に反対側へ傾いていく。
川へとその身を投げ出される時、ぶしゅり、とその場に似つかわしくない音が響いていた。
「秋揮さまッ」
雪乃が叫び声を上げる。だが今の彼には、それに応えてやる余裕が無い。
左腕が痺れて、手に力が入らなかった。じわりと広がりつつあった熱から、激痛が奔る。
そして同時に船から身体が投げ出されて。
左腕から秋揮は水の中に落ちていった。水が大きく跳ね上がる音が響いたかと思うと、すぐに左耳が、水の中独特の篭った音を捉える。頬に当たる水は、冷たい。だが左腕は燃えるように熱かった。
顔が水の中へ浸されていく。開いた目が、水中の世界を捉えていた。
「……ッ!」
ゆるやかに弧を描いていた川のせいで、背中が対岸の岩部分へぶつかる。身体中に、鈍い音が響き渡った。
その衝撃は強く、思わず息を詰めていた。ぜえ、と息を荒く吐き、何とかそれをやり過ごしていく。
幾重にも攻撃を受けて体が悲鳴を上げていたが、立ち上がれねばならない。今はまだ、船に邪魔されて妖の姿は見えないが、早く体勢を整えねば妖に叩き潰されるだろう。
秋揮は足をもがかせながら、何とか小石がごろごろと敷き詰められている川底に足をついた。身体に力を入れる度に、呼吸をする度に左肩に激痛が奔る。それでも何とか立ち上がり、今度は右手で刀を握る。
太腿の部分までごうごうと流れる水に浸されていた。袴が水にさらわれていくのが気持ち悪いような感覚を彼に与えている。隣でも、雪乃と船頭が水に足を取られながらも立ち上がっている。手を貸してやりたいが、この状況でそれは不可能だった。
ゆらり、と澄んだ底で蠢く妖の姿が見える。その瞳ははっきりとは見えなかったが、何故だかこちらを睨みつけているように感じられた。
今度は外す訳にはいかない。対岸の壁を背にしながら、右手で刀を振り上げる。ゆらりとその身体を不気味にくねらせて動く妖の姿。
二つの視線が、水というフィルターを媒介に絡み合う。
じり、と動く妖の、今度こそ目に当てようと狙いを定める。じくりじくりと左肩の傷が痛んだ。
そして、秋揮の右手が動くのと、妖が彼の右足に襲い掛かるのは、ほとんど同時だった。