第五話 歌い人との出会い

 関所。それは国と国の境目にある、その国最後の拠り所だ。秋揮は、ひとつ小さく息を吐きながら、その門を見上げる。
 それは、木で出来た、人が数人同時に通れる程のものだ。城のように、城壁という堅固な守りも、城門のような大きな閂がある訳でもない。
「……いつ見ても、関所は苦手だわ」
「そうでしょうね」
 隣に立つ雪乃が関所の門を見上げ、ひとつ小さくため息を吐いた。その顔にはどこか憂鬱そうな表情が浮かんでいる。
 そう、ここは国にとって最後の拠り所だ。
 壁も何も無い、ただぽつぽつと木が生えるだけのそこから漂うのは、呪術の気配だ。それも、幾人もの術師によるもの。
 それは、関所を中心に、まるで城の壁のように分厚く、国を囲んでいる。
 ここ花刺子模一帯に散らばる五つの国同士には、不可侵の掟が結ばれている。だから国による侵攻の為にこうして術を掛けている訳では無い。まあ、国によっては、他国を警戒して術を掛ける国もあるのだろうが。
 一番の目的は、妖だ。
 それは人に匹敵するほどの知能を持ち、そして人をも喰らう、異形の生き物達。国は民を守るため、こうして国を囲むように、呪術の壁を作る。それによって、民達は国内では安心して暮らせるのだ。
 だが反対に、旅をするものにとって、国境越えは一番の難所となる。国境は接してある訳では無い。その為、妖を倒せる程の実力を持つもので無いと、国を生きて通るのは難しいのだ。
 その為に、秋揮が自分の身分を明かすのが面倒な時に使う傭兵という肩書き。本物の彼等は、こうして国境付近で旅人の護衛をして収入を得ている者達がほとんどである。
 秋揮が横に目を向けると、旅人が休憩の為に使う茶屋が見えた。外に置かれた椅子に座っている者達はそれぞれ皆、一目で手錬だと分かる者達ばかりだ。
 皆がこちらに一様に視線を返してくるのを僅かに苦く思いながら、秋揮は足を進める。
「さて、手続きして行きますか」
「ええ」
 そうして二人は手続きを済ませ、門の前で足を止める。濃厚に漂う、呪術の気配を感じながら、一歩、門の向こうへと足を踏み出した。
 ぷつり、と耳元で大きな音が響いて、そしてがらりと身体に纏わり付く空気の流れが変わるような気配を感じる。
 それは隣にいた雪乃も感じたらしく、僅かに身震いをしていた。それもそうだろう、と秋揮は心の奥底で思う。呪術に縁の深くない自分でさえ感じるこの濃厚な呪術の気配。呪術師にしてみれば、どれほどのものだろうか。
 返ったら星虎に聞いてみよう、と思いつつ、秋揮は次に訪れる国、陸羽(りくうのくに)への道を歩き出した。
 陸羽は秋揮が暮らしていた越に接している、のどかな国だ。
 白呪術師達が多く暮らすと言われている。秋揮も蔡で手がかりを得られなかったら、ここを訪れようと考えていた国だ。
 ただ、この国は人口制限を行っている国で、入るのに難しい手続きが必要だ。それを知っているから後回しにしていたのだが、いよいよ手がかりも少なくなってきた今となっては、面倒だとも言っていられない。それに何より、呪術に関する情報を得るならば、と雪乃も、そして彼女の師匠もここを推してきた事もある。
 やはりその道の者が進めるのならば、行くしかないだろう。その意見が最後の後押しとなって、秋揮の背中を押したのだ。
 ざ、ざと砂を巻き上げる単調な音が続いている。周りに広がる景色は、どんどん緑が深くなっていくばかり。
「……森、ですか」
 雪乃はどこか不安そうに、段々と濃くなってくる木々を見上げながら呟く。
「ええ。森を抜けると、川があります。その川越えが、国越え最大の難所とも言われています」
「……なるほど」
 二人の呟きが、森が作り出す静けさへと溶けていく。遠くで何かが鳴いているような音が響いて。
 これで、妖がいなければ、なんと平穏なひと時なのだろう。僅かに遠くにいる、妖の気配を感じながら、秋揮はそう感じていた。
「やはりいますね、妖」
「ええ」
 雪乃はざ、ざと進めていた足を止め、しゃらん、と腕に幾つか嵌めている呪具を鳴らした。
「どうしましょう? 妖への呪術を掛けときますか?」
「いえ……その心配は無いと思いますよ」
「……?」
 雪乃の言葉に、薄らと笑みを浮かべながら秋揮は答えた。その言葉の真意を探ろうと、首を傾げた彼女の表情が、一瞬強張る。
 秋揮は彼女が首を傾げた時、身の内に眠らせていた殺気を解き放ったのだ。
 どくん――、と身体の内で眠っているそれが疼いて、発散される喜びに踊っているのが分かる。
 妖は賢い生き物だ。だから自分より強いものに、無闇に襲い掛かる事はしない。だからこうして、普段は隠している殺気を解いて歩けば、相応の術と同じくらいの効果があるのだ。
 自分が面倒なまでに、身の内にそういったものを飼っている事は承知済みだ。それはこのような時に有用であることも、そして人に対しては少なからず怯えを与えてきた事も、全て承知済みなのだ。
 だから、雪乃がこれで自分と歩いていく事に躊躇いが出るかもしれない、と殺気を放ちながら、どこか冷静に考えていた。
 ――それでも良いかもしれないと思った。
 何せ、自分に今まで親しくしてくれた人物は、大抵この殺気とあの事を知ると、一歩線を引いてしまうのだから。
 今だったら、まだ帰れと言う事が出来る。蔡の国境はすぐそこなのだ。
「……驚きました?」
 秋揮は笑みを浮かべたまま、そう問うた。雪乃は僅かに強張らせた表情のまま、小さく頷く。
 何かを躊躇うような、そんな間が二人に広がった。
 ああ――やはりこの人もそうなのか。
 自然、秋揮は胸の内でそう呟いていた。
 確かに彼女を危ない目に合わせる訳にはいかないから、それで良かった筈なのだ。このまま自分についてくる事を躊躇って、国に戻る事が一番なのだ。
 脳内でもそう理解している。だが、自分の心のどこかが。何故だかそれを寂しいと思ってしまう感情がある。
 秋揮はふとその感情に気がつき、今もそれが心に残っている事に驚いていた。そんな感情はとうに捨てた筈だったからだ。
 ――星虎の下で一生を終える、と決めた時に。
「少し。――そうですよね、こうして普通に歩いていると全然感じさせてくれませんけど、将軍さまなんですものね」
「――、一応は」
 聞き慣れた言葉に、やはり、とどこか諦めたような感情が広がっていく。だが、雪乃は顔を上げて、微笑を浮かべたのだ。
「流石ですね! 私も一介の呪術師として、そこまでの殺気を身につけられるようになりたいです」
「――え?」
 聞き慣れない言葉に、秋揮はぱちぱちと目を瞬いた。
 彼の目の前にあるのは――普段とは全く違う反応。先程まで強張った表情を浮かべていた彼女は、今は彼に、憧れの眼差しを寄越してくるのだ。
「白呪術師と言っても、やはり戦わなければならない時も多いですからね。やっぱりそういう時は、殺気が出せればそれだけで牽制になりますし」
 何より、無駄な呪術を使わなくてすみます、とそう言って彼女はにこりと笑顔を向けた。
「……え、ええと……」
 予想とは真逆の反応に、秋揮の口からはうろたえるような言葉しか出てこない。
「この旅で、しっかり盗ませてもらいますから!」
「――は、あ……」
 頑張らなくちゃ、と拳を握る雪乃に、ただ秋揮はぽかんと口を開くだけだった。
「何突っ立ってるんですか? 早く行きますよ?」
「え? ええ……」
 気が付けば、随分先を歩いていた雪乃が、不思議な表情を浮かべながらこちらを見ていた。彼女に呼ばれて、慌てて秋揮も一歩を踏み出す。
「もう、妖避けがしっかりしてなくちゃ、駄目じゃないですか……って、何笑ってるんですか?」
 秋揮の顔を覗きこんできた雪乃に、彼は小さく首を振って微笑む。
「いえ、何でもありません」
 何故だか、空気が澄んでいるように感じられた。
 

 * * *


 殺気を出したまま、歩いていたお陰で、近くにふいと寄ってきていた妖の気配も随分と遠くなっていた。
 そして二人が歩を進めていく内に、周りの森も随分と薄くなってくる。
「もうすぐですね……」
 耳にざあ、と水が流れる音が響いてきて、秋揮はそう呟いていた。隣でええ、と小さく雪乃が頷く。
 そして不意にぽっかりと視界が開けた。目の前にはごうごうと水が流れる川と、白と灰で構成された川原が広がるのみだ。森の木々は向こう岸に渡らない限り、遭遇する事は無い。
 その川には橋は架かっていなかった。
 その代わり、川原には小さな小屋と、そして船が何隻か、川原に敷かれた丸太の上にある。
「すいませーん」
「はいはーい」
 秋揮がその小屋に近付いて声を掛けると、中から間延びした男の声が響いた。しばらく待つと、その小屋の戸が開いて、中から男が顔を出す。
「あらあらお客さんですか、いらっしゃい」
 男はぼさぼさの頭をかきながら、二人でよろしいですか、と聞いてきた。そのどこか気だるげな態度の奥に、手錬と分かる動作が隠されている。
 それはそうだろう。そもそも、妖の棲家となっているこの一帯で、力の無い者が船渡しなど、出来ないだろうから。
「ああ。向こう岸まで頼む」
 秋揮はそう言いながら、駄賃を渡した。男はそれを相変わらずやる気が無い態度で受け取る。
「はい、確かに頂きました。今回のお客さんだと、随分楽かもしれないね」
 秋揮が発している殺気を見て言ったのだろう。彼は一度小屋に戻って、それから呪具を手に戻ってきた。
「ただ、気をつけてね。お客さん達だと、余計に強いのが引き寄せられるかもしれないから。――俺もいるしね」
「――そうだな」
 男は丸太の上に乗った船をごろごろと動かしていた。秋揮も彼の意見に頷く。妖には強い者を好むといった性質があるらしく、時たまそういった事があるのだ。
「それじゃ、行きますよ、乗ってください」
 男は船の中にあった櫂を拾い上げると、二人を促した。三人を乗せた船は、がこん、と水ので幾らか不安定な動きを見せる。そうしてしばらくその動きを見せた後、ゆっくりと川の流れに押されながら進み始めた。
「陸羽側の道はちょっと下流にあるんでね。少し下りますよ」
 男は船の上でも変わらず覇気の無い声でそう告げながら、川の流れに少し合わせて櫂を動かした。
 水面に目を向ければ、澄んだ水がごうごうと音を立てて流れていく。ここ数日快晴だったからだろう。
 陸羽まで晴れていればいいなあと考えを向けていると、ゆらり、と何かが近付いてくる気配がした。どうやら天候には恵まれているが、他には恵まれていないらしい。
 つくづく旅も大変だ。
 小さくため息を吐いた秋揮は、刀の柄に手を掛ける。
「お客さん、今日は駄目だね」
 今まで全く覇気の無かった男の声が、急に力を取り戻して、そう告げていた。秋揮の後ろでしゃらん、と鳴る呪具の音。
 ごう、と水の流れの中に、ばしゃり、と何かが動く音がした。それは少し遠くで響いたかと思うと、数秒を置いて、近くで響く。
 そして、一瞬で抜刀した秋揮の横で大きく響く、ばしゃりという水音。
 その水音の正体は、水面から大きく跳躍して、三人の前に姿を見せていた。