「星虎ッ!」
秋揮は目の前で起きた爆発に、声を荒げながらもその部屋に飛び込んでいた。
もうもうと立ち込める煙で視界があっという間に塞がれる。ぱらぱらと、天井から何かが落ちてくる音。そして鼻をつくのは焦げ臭い匂い。
そんな中、思ったよりも落ち着いた声が、秋揮の耳に届いてきた。
「……秋揮? 秋揮なのか?」
「星虎? おい、大丈夫なのかッ……!」
前が見えない、と苛立たしげに秋揮は叫ぶ。そんな彼を落ち着かせるかのように、秋揮に答える声がひとつ。
「ああ。俺は大丈夫だ。――今煙を払う」
ちょっと待ってくれ、と声だけ残して、そして何やらぶつぶつと呟きの声が続く。
その呟きをきっかけとしてか、不意に、秋揮の目の前に広がっていた白い煙が綺麗に払われていた。
「……――え……?」
安否を問おうとした口が、目の前に広がる光景に固まる。秋揮の視線は、こちらにどこか戸惑ったような表情を向けてくる、星虎へと向かっていた。
鈴奈院星虎(すずないんせいこ)――越では虎王と呼ばれる彼は、いつもと同じように、その場に佇んでいた。多少着物が破れている部分はあるものの、その身体に大きな怪我は見受けられない。いつもの悠然と構えている、越の王だ。
そう、彼の姿に、秋揮はその動きを固めたのでは、無い。
秋揮の動きを固めたのは、星虎と対峙する人物だった。
「揚羽姫……?」
秋揮の後ろに立っていた宰京の口から、ぽろりと零れ落ちる名前。
そう。そこに立っていたのは、星虎の妹、鈴奈院揚羽(すずないんあげは)だったのだ。
彼女は手に小刀を持ち、逆の手には、普段から彼女が使用している呪具が嵌められている。
そしてその視線は爛々とこちらを睨みつけるようで。
ここに現れたばかりで、何が起きているのか把握できていない秋揮でも、これだけの事は分かった。
今回の事件を起こしたのが――揚羽であるということ。
その証拠に、彼女の身体からはどす黒い、どろどろとした殺気が溢れ出している。それは、黒呪術特有の殺気。
「……どうして……だ?」
ぽつりと呟いた言葉。それをどう受け取ったのか分からないが、星虎も困惑を強く滲ませた表情で、横に首を振っていた。
「分からない……。俺にも、何が起きたんだか……さっぱり……」
その時、不意に前方でぼそりと揚羽が呪を呟いて、秋揮はその場で身構えた。手を刀に掛ける。
例え相手が実の妹であろうと、星虎だけは守りきらなくてはならない。星虎にどれだけ恨まれようと、それだけは秋揮が遥か昔から心に決めていることだ。
星虎が小さく舌打ちをして、右手を前に翳した。そこには、鞘に収めたままの小刀がある。星虎の呪具だ。
「呪よ風よ。この身の前に壁を放て」
ぼそ、と星虎がそう呟くのと、揚羽の周りから炎が溢れ出るのは、ほぼ同時だった。秋揮の長い髪が、星虎によって起こされた風に攫われるのが分かる。
「……ッ!」
星虎の前に、ごう、と風の壁が現れていた。そして、前方から疾風のごとく飛んできた炎の波と、その風がぶつかり合う。
風の渦に守られて、三人の身は安全だった。だが、その風の向こうでは、畳に炎が引火し、ちりちりと黒い煙が天井に湧き上がっている。
「はあッ!」
星虎が、文字通り虎の咆哮を上げた。彼の気合いを得て、渦となって守っていた風が、四方へと飛んでいく。それらは部屋のほとんどの炎を道連れに消し去って行った。
だが、揚羽の周りの炎は、星虎の呪を受けてもビクともせずに、その場で生き物のごとく、ゆらめきを上げている。それは揚羽の着物を燃やす事無く、けれども城のものにはじわりじわりと燃え移っていた。
彼女は、異様なまでに無表情を貫いていた。
そう、そこに秋揮と宰京が現れても、星虎に自らの呪術を吹き飛ばされても、決してその表情を変える事は無かったのだ。
だからこそ、三人は彼女が発する異様な気配に、その場から動く事ができないでいたのだ。
「――……」
ごくり、と秋揮の喉が鳴るのが分かる。職業柄、呪術師と刃を交える事は幾度もあれども、ここまでこの身を緊張に費やした事は今までに数ある程しか無かった。
目の前に立つのが、普段短気で我侭で、喜怒哀楽の激しい筈の揚羽だと分かっていたからか。
――それとも、彼女から発するその黒呪術の気配にこの身が怯えているのか。
ちりちりと部屋の襖が燃えていく。白い紙が床から黒く塗り変わっていく中、四人の間に漂う、奇妙で不気味な沈黙。
それを最初に破ったのは、揚羽だった。
ゆら、と彼女を包んでいた炎が、不意に高さを増していく。その中で、彼女は僅かに身じろぎしたようで、その行動に、硬直していた体が動き出すのが分かった。
「ッ、揚羽ッ!」
星虎が掠れた叫び声を上げる。
そして彼等の前で、揚羽はゆっくりと、口の端を上げていた。
そうして、彼女は笑いながら、その目尻から、涙を一筋、零していたのだ。
「――おねがい。わたしを――ころして」
その言葉を最後に、彼女を包んでいた炎は激しさを一気に増していた。
それは――彼女の身体をかき消す程に。
そうして、揚羽は彼等の前から姿を消した。
城の炎上という、不可解な事件を残して。
* * *
秋揮は全てを話し終えると、小さく息を吐いた。そうして視線を部屋の隅に置かれている行灯へと向ける。彼の目に映るのは、ゆらり部屋を灯す炎の紅。
「そんな――ことが……」
向かい合って話を聞いていた雪乃は、僅かに足を動かした。そこで思った以上に体が強張っている事に気が付く。
それだけ彼が話した内容は、彼女にとって緊張を強いるものだった。
目の前に座るのが、雪乃にとって雲上人であった事もおそらく自然と彼女を緊張に導いていたのだろう。
普段、雪乃が白拍子として相手にしているお客は、確かに身分の高い人ばかりであった。だが、目の前に座している人物とは、格が違うのだ。
先程秋揮をからかいたくなった自分を褒めてやりたい。
「ええ。確かに揚羽姫は黒呪術を学んでいましたし、人より気性が荒い方ではありました。それでも、あの日の彼女は、何かがおかしかった」
雪乃へと視線を戻した秋揮は、ぽつりとそう言葉を落としていた。そして、手にしていた茶碗からお茶を一口含むと、話を締めるようにこう言った。
「それからです。黒揚羽が率いる呪術師集団が、あちこちで暗躍を始めたのは」
「……」
雪乃は黙したまま、しばし沈黙を続けていた。今の話をどう返せば良いのか分からない、という事もある。
だから、雪乃は違う事を尋ねた。
「――秋揮さまは、これからどうするのですか?」
「そうですね……」
秋揮はそこで初めて、どこか困惑したような表情を見せる。
「もう少し、手がかりを探さなければ信越には帰れませんしね……。おそらく、あなたの師匠からお聞きした呪術師のお宅を訪問していく感じになるのでしょうか」
実は手詰まりなんですよ、と彼はそう言って苦笑した。そこに浮かぶのは、ただの一介の青年の表情。
その表情を見てか、雪乃の脳裏に、再び昨日の早朝に言われた言葉を思い出す。
(いや、なんとなくな、お前はもうここには来ない気がするんだよな)
(何だか今日は、いつもと違うように感じる)
その言葉に、ああ、と雪乃は、胸の奥で腑に落ちた感情を得ていた。きっと彼等が感じていたあの言葉は、この日の為にあるのだろう。
そして、あの日、あの呪術師に会った一時も。
気が付けば、苦笑している秋揮に、雪乃はこう言葉を発していた。
「――私にもお手伝いさせて貰えませんか?」
秋揮のゆるりと結わいた髪の毛に手を当てようとしていた彼は、目を見開いてその手を制止していた。
そして、そのままたっぷり数秒間は制止していただろうか。
「……は?」
ようやくその一言だけ発した彼に、思わず雪乃は噴き出してしまう。
「ですから、私も連れて行って下さいとお願いしているんです。お金なら気にしないで下さい。私も白拍子をしているのでそれなりにお金は持っていますし、何だったら旅の途中で……」
「いや、ちょっと待ってくださいよ?」
「……はい」
たちまち旅費の算段について語り始めた雪乃を慌てふためいた表情で、秋揮は止める。そして顔全体に「困ってます助けてください」という表情を貼り付けて、あたふたと話し始めた。
「あの、旅費は別に気にしなくて良いんですよ……星虎に全て押し付けますから……ってそうじゃなくて! 何でついて来ようとしているんですか! あなたには関係ないでしょう?」
「そんな事は無いですよ。私も多かれ少なかれ、黒揚羽という人物に関わっているんですし」
「それは――……そうですけど、でも!」
「それに、呪術師がひとりいると便利ですよ? 一介の武人だけでは分からない事もおありでしょう?」
「――……まあ、そうなんですけど……」
どうやら秋揮は押しに弱い人物のようだ。雪乃の言葉に、どんどん表情を失くしていくのがありありと見て取ることができる。
「私が勝手についていきたいだけなんです。そんなに私が嫌だったら、後ろからこっそりついていきますから」
「いや、その方がかえって迷惑ですからっ!」
「それじゃあ、決定ですね?」
「――……」
にっこりと極上の笑みを浮かべた雪乃に、秋揮は幾度か瞳を瞬いた。そしてそれから大きく息を吐く。
どうやら諦めたらしい秋揮の行動に彼女はひとつ頷くと、いそいそと端に寄せてある布団を引き摺り出してきた。その行動に、再び秋揮があたふたと慌て出す。
「ちょっと……! 何してるんですか!」
「何って、寝る準備ですけど?」
「それは分かりますけど……! あなたもここで寝るつもりですか?」
慌てる秋揮に、雪乃はひとつため息を吐く。
「あのですねぇ。私はここに白拍子姿で来ているんですよ? こんな夜中に帰ったら、明日白い目で見られるのは秋揮さまですよ?」
「――……」
そこまで考えていなかったらしい秋揮は、ぽかりと口を開いた。
「まあ、押しかけたのは私なんですけど……。――そうです! お詫びに、何か……」
「いいえ、結構ですッ!」
そうして、唐突に賑やかになった彼等の夜は、ゆっくりと更けていく――。