秋揮はその日、いつもよりも早めに仕事を終えて、城下の一角にある自分の屋敷に帰っていた。普段は、怠け者の主のせいで仕事が滞るので、城内の一室で寝泊りすることが多い。だから秋揮としては、借家でも構わなかったのだ。
だが面倒見の良い主は、正四位の者に、借家住まいなどさせられるかと言い、秋揮に屋敷を押し付けてきたのだった。
自分の部屋で簡素な衣に着替えると、秋揮は小さく息を吐いた。彼が着替えた頃合いを見計らってか、屋敷の一切を管理している侍女が、静かに秋揮の近くにやってくる。薄暗い部屋に、灯りを指しながら彼女は尋ねてきた。
「――夕餉はいかがしましょう?」
「そうだな――、頼む」
そういえば今日は城で朝餉を食べてから今まで、何も口にしていなかった。その事をうっかり呟きに乗せると、たちまち鋭い視線が返ってくるのが分かった。
「しっかり朝昼晩、お食べになって下さいと申し上げていますでしょうに」
「うう……申し訳ない」
秋揮は鋭い自然に、僅かにたじろぎながら謝罪を口にした。侍女は、身体が資本のお仕事なのですから、と未だぶつぶつ呟きながらも、奥へと消えていく。彼女が消えていくのを見送った秋揮の口から、自然とため息が出ていた。
彼女は、この屋敷に住み始めた頃からここを仕切っている。母親程の年齢、という事もあって、彼は彼女に何かと頭が上がらないのだ。
ぼう、と幾分だらしなく胡坐をかいて、秋揮は開け放たれた部屋の先から庭を見やる。
普段滅多に屋敷に帰ってこないので、庭の手入れなども出来ない。全てを今やってきた侍女に任せてしまっているのだが、彼女がしっかりしているようで、庭は客が来ても見せられるようなものになっている。本当に自分には過ぎた侍女だと思っている。
庭の端に立つ梅の木へと目をやっていると、す、と襖を開ける音がして、侍女が膳を運んできた。
「はい、どうぞ」
「ああ――頂きます」
とん、と部屋に置かれた膳の前まで移動すると、そう言って箸を取った。傍に座った侍女は秋揮の為に温かい茶を入れていく。
質素ながらもしっかりとした味付けのそれは、この屋敷に来てから変わらないものだ。これが俗に言うふるさとの味か、とそんなことを考えながら、侍女へと目を向けた。
「うまい」
「そうですか。それはようございました」
侍女はにっこりと笑んで、す、と茶を差し出した。絶妙な温度のそれは、料理の味を決して損ねないように出来ている。
「そういえば――ここにはあいつは来たことは無かったな」
「あいつ……誰かお客様でございますか?」
「いや――」
秋揮はふと頭の端に、とある人物を思い浮かべてぼそりと呟いた。侍女は首を傾げて、言葉を返す。ひとつ頷こうとして、流石に思い留まった。
そうして箸で漬物を摘みつつ、脳内で言葉を捜していく。
「城に、高貴な身分にも関わらず、毎回城下町の食堂で飯を探す方がおられてね」
「はあ――随分と物好きなお方ですね」
秋揮の言葉に、侍女は率直な意見を述べたようだ。秋揮様よりも高貴な身分であらせられるなら、何でも好きな物を用意できるでしょうに、と続いて呟く。
それが実は、この越を統べる王なのだ、と告げたら、彼女はどう反応するだろうか。
「まあね。趣味みたいなものらしいけど――その方に一度、家の飯を食って頂いたらどうなるかな、と思って」
侍女は一度目を瞬かせ、そしてゆっくりと微笑んだ。
「それでは――その方がお見えになった時、この腕を存分に振るわなければなりませんね」
「ああ――……」
侍女の反応に、くすりと笑いを漏らしたその時だった。
静寂な屋敷の空間に、突如激しい鐘の音が響き渡った。
思わず箸を取り落としそうになりながら、秋揮は素早く箸を置く。
「あら――」
侍女がす、と立ち上がった時、入り口へ、ばたばたと誰かが走りこんでくる気配がした。秋揮は素早く立ち上がり、気配の元へと走りこむ。
「橘将軍ッ!」
彼の家に走り込んできたのは、秋揮の部下だった。ぜいぜいと激しく息を切らしながら、彼は秋揮へと顔を向ける。
「大変ですッ! 城が……何者かによって襲撃されていますッ!」
その言葉に、秋揮は弾かれるように走り出していた。城と彼の屋敷は、目と鼻の先にある。道へと飛び出て、鼻につく異臭に気がついた。
「――!」
城へと視線を向けて――秋揮は、思わず息を呑んでいた。
暗くて良くは分からないが、城の窓と言う窓から、煙がもくもくと空へ向けて立ち昇っていたのだ。そして一部の窓から見えるのは、赤い炎。
耳をつく、きいんと響く鐘の音。
城が――炎上しているのだ。
「くそ! 今日と言う日に限ってか!」
秋揮は思わず毒づくと、門へ向けて走り出した。城からは、避難の為に門の外へとぞくぞくと人が飛び出てくる。
「将軍ッ! ここから先は危険です!」
「――王は。星虎様はッ!」
門から中へ飛び込もうとして、門番の兵に足止めを喰らった。半ば焦りを抱えながら、秋揮は兵へと尋ねる。半分八つ当たりだという事は分かっているが、この感情を抑えるのは難しかった。
「王は、他の者達を先に逃がそうと、未だ中に――あ、将軍ッ!」
それだけ聞くと、秋揮はその兵を振り切って、中へと走りこんでいた。背後で兵が戻るように叫び声を上げているが、気に掛けている場合では無い。
城への道を走り抜けて、城内へと飛び込む。初めは混乱するように流れていた人々も、城内へと飛び込んでからは、ほとんどいなくなっていた。
黒い煙が天井を這い、所々であがる木材が燃える音。暗くて灯りが落ちている中を感覚だけを頼りに、体勢を低くして進んでいく。
「星虎ッ!」
星虎を呼んで各部屋を回るが、そこには星虎の気配は無い。時折開いた部屋の中からは、柱や壁が煤けている光景も見受けられた。ぷすぷすと残る煙が、少し前までここが炎上していたという事が見受けられる。
微かに残るその気配から、そこで呪術が使われていたという事が分かるだけだ。
だが、人の気配は無い。
秋揮は、まさか星虎が死んでいる目にあっているとは思っていない。星虎は、呪術の達人でもあるからだ。秋揮としょっちゅう手合わせをしているが、中々勝負が付かないこともしばしばだ。
おそらく、炎上している部屋を彼が消火して回っているのだろう。柱に濃く残る、馴染みの気配にそっと手を這わせて、秋揮はそう考えていた。
とにかく彼らを見つけなければ。
柱から手を離した秋揮は、庭に続く通路へと出ると、小走りに進んでいく。そうしてひとつ角を曲がった所で、秋揮は彼に背中を向けて立っている人物を見つけ、駆け寄った。
「宰京(さいけい)様!」
秋揮が名を呼ぶと、その人物――鈴奈院宰京は、長い茶の髪の毛をひるがえして、こちらへと振り向いた。
「ご無事ですかッ!」
「ええ――」
宰京は、手に持っていた刀をひゅ、と一度振りながら頷く。振った刀からは血糊が飛び、今まで戦いを繰り返していた事が分かった。
宰京は、虎王、星虎の妻だ。手に持っている刀からも分かるように、女ながらも剣術の達人である。
だが、普段は勝気な彼女が浮かべている表情は、どこか浮かないものだった。
「王は――?」
「私も今探しているのですが。城の中に侵入した賊のおかげで、しばらく手間取ってしまって」
そう告げると、ひとつため息を吐く。
「ご無事で何よりです。もし宰京様になにかあれば、王に殺されてしまう」
秋揮がふんわりと微笑むと、浮かない表情を見せていた宰京も、ようやく僅かながら笑みを見せた。
「私はこれから王を探します。宰京様は外――」
「私も行きます」
秋揮の言葉を遮るように、断固とした口調で宰京はそう告げた。その声音に、秋揮は小さく息を吐く。
星虎と言い、宰京と言い、似たもの同志なのである。政略結婚な筈なのに、まあ良くもここまで似たものだ、と幾度も思ってきていた。
つまり、説得は無意味。それを秋揮は、今日までに身をもって理解しているのだ。
「――では、向かいましょうか」
「ええ。――気をつけてください」
宰京はひとつ頷くと、先に立って歩き出した秋揮についていく。そして、彼女には似つかわしくない、慎重な言葉を秋揮は聞いていた。
「おそらく、今回の首謀者は呪術師です。――気をつけましょう。何だか嫌な予感がする」
「肝に銘じます」
秋揮はひとつ頷いて、階段へと足を掛けていた。極力足音を立てないように二人は上へと上がっていく。
そして、廊下を滑りぬけようとした時、ひとつ、気配を感じていた。
それは一瞬の後に殺気へと変化し、大きく膨れ上がる。
「――ッ!」
咄嗟に秋揮は前方に、宰京は後方へと飛び退いた。その間をひゅん、と小さな音がして、何かが落ちてきた。そう思った瞬間には、それは大きな爆発音を立てていた。
目の前の宰京の姿が薄れ、代わりに現れたのは白い煙。鼻を付く、強い火薬の匂い。
「宰京様!」
「私は大丈夫ですッ!」
宰京の安否を問いながら、秋揮は懐に忍ばせていた懐刀を一瞬で抜き取り、天井へと飛ばしていた。どす、と鈍い音が天井から聞こえると続いて小さな呻き声が上がり、じわ、と煤けた色の天井に黒い染みが広がっていく。
ゆっくりと収まっていく煙の中で、秋揮はそれを目で確認していた。そこへ、小走りに宰京が走りこんでくる。
「行きましょう。もたもたしていると、また攻撃されます」
「――は」
ちらりと天井に突き刺さったままの懐刀へ目をやると、再び秋揮は廊下を進み出した。そうしてしばらく進んでいると、前方の部屋から呪術の気配と、そしてひっきりなしに爆発音が聞こえてくる。
「――星虎です」
宰京はその気配を感じ、ぼそりと呟いた。秋揮もその良く知る気配をひしひしと感じたので、黙って頷く。
そうしてその部屋に急ごうと一歩を踏み出した時。
轟音と共に――、その部屋の襖が粉々に吹き飛んでいた。