第四話 炎上の記憶


 陽が、街の向こうへ落ちていく。
 雪乃はそれを眺めながら、未だ迷っていた。温い風が吹いて、彼女が着ている衣の裾をふうわりと膨らませる。
 眩しいほどの陽の光は、今は柔らかく雪乃へと降り注いでいた。
「どうしよう……」
 白拍子の自分の姿を見下ろしながら、彼女はひとつ呟いた。
 そもそも、師匠に秋揮の居場所を聞いたのが間違いだった。今日は夜も仕事がある。一件、お得意様へ伺わなければならないのだ。
 顔を上げれば、茜色に染まる空が一杯に視界に入った。雪乃にとっての密かな楽しみだ。だが今日に限って、それを見ても気が晴れる事は無い。
 一歩、また一歩。足をざり、と進めて。
 そしてついに、彼女は歩く事を止めてしまった。
「私らしくもない……」
 こうしてくよくよと女々しく悩むことは、彼女が嫌悪している事柄のひとつだった。自分の本能の赴くままにさっと決めて、すぐに動く。彼女はそういう女だ。
 だがどうしてか、今日は身体が動いてくれない。
 ぼうやりと、茜色から闇色へと色を変えていく空をじっと見つめる。こうしている内にも、刻々と時間は迫ってくる。だがどうしても、動けない。
 理由は勿論、昼間に訪れた秋揮のせいだった。
 彼女がかつて対峙した、黒揚羽という呪術師。それが隣の国のお姫様だという事実。
 それは、雪乃達が住んでいる蔡の隣の国、越の王族の気質を知っているとしても、驚愕の内容だった。荒い気質の越、王族も確かにその気質を継いでいるらしいが、それでも鈴奈院一族の絆は強固だと言う。
 かつて越の国で、重臣による反逆があってから、絆が確固たるものとなっている、という話もある。
 そして、秋揮という男。
 彼が纏う、あのどこか飄々とした雰囲気。さらに、自らの事を述べた時に感じた、確固たる風格。
 彼は白拍子として、長いこと夜を渡ってきた彼女でさえ、初めて目にする性質の男だった。
 雪乃の脳裏に、あの軽く髪を束ねた秋揮の姿が浮かび上がり、彼女は首を横に振って、慌ててそれを打ち消していた。
「……ええい、悩むなんて私らしくない!」
 ぶんぶんと首を横に振った彼女は、立ち上がった。本能のままに生きていくのが自分。そう思い直して、来た道を戻っていく。



 雪乃は白拍子姿のまま、街中の店などが立ち並ぶ通りへと足を踏み入れようとしていた。もう大分夜も更けているので、あちこちの軒先から、黄色い光が漏れている。
 それを横目で確認しながら、ぽつぽつとまばらに人が行き交う中を、雪乃は足早に歩いていた。そして、一軒の宿屋の前で、足を止める。
 一度だけ上の階の窓を見上げて、雪乃はひとつ息を吐いた。
 そして、ざ、と足音を立てて、中へと入っていく。
「こんばんは」
「あら雪乃さん、いらっしゃい」
 入り口で雑事をこなしていた女性が、雪乃を振り返って笑顔を作った。普段は雪乃は茶屋で仕事をすることが多いが、こういった宿屋でも呼ばれれば行く。要は、仕事が出来ればどこでも良いのだ。
「ここに、橘って人、泊まってる?」
「ええと、ちょっと待ってね」
 雪乃が名前を告げると、彼女は帳簿を取って確認しだした。おそらく仕事だと思っているのだろう。現に雪乃の服は白拍子のままだ。
「えっと……あ、あったわ」
 女性はそう言うと、雪乃に部屋の場所を告げた。
「ありがとう」
 雪乃は一言お礼を言うと、中へと上がりこむ。言われた通りに階段を上り、廊下をしずしずと歩いて、ひとつの扉の前で足を止めた。
 そうして、膝を付き、小さめに扉を叩いた。
「どうぞ」
 ややあって、部屋の中から、間延びした秋揮の声が聞こえた。雪乃は黙り込んだまま、扉を開いて、襖を開けた。
 板張りの質素な部屋。典型的な安宿の一間だ。
「……え?」
 戸の向こうには、どこかだらしなく胡坐をかいた、秋揮の姿があった。窓から何かを見ていたらしい彼は雪乃の姿を認めると、目を丸くする。
「あの……今、お時間良いですか?」
「ええ……私は勿論構いませんが」
 秋揮はまだ驚いている声音を乗せたまま、ひとつ頷いた。
 雪乃はゆっくりと中に入ると、彼と向かい合って正座する。
「ええと……」
「驚きました?」
 どこか戸惑ったような声音に、雪乃は密かに強張っていた心を緩めて、くすりと笑った。先程のしっかりした秋揮の姿を見ているから、その違いがおかしかったのだ。
「驚かない方がおかしいでしょう。いきなりやってきて、しかもし、白拍子姿なんて」
 白拍子という言葉で噛む人を雪乃は初めて見た。さらにおかしさが込み上げてくる。
「それはごめんなさい。でも、どうしても気になってしまって」
 仕事を放り投げて来てしまいました。そう雪乃が言うと、秋揮は訳が分からない、と戸惑うような表情を見せる。
「え? どうして?」
 秋揮の表情が面白くて、雪乃はこの青年をからかいたくなっていた。
「貴方にどうしても会いたくて」
「え……いやあの、その……」
 さらにぶんぶんと首を横に振って、意味を成さない言葉を発する秋揮。その姿はやけに面白くて、彼女はもっとからかってやろうかと考えた。だがあまり言うと可哀想なので、ここら辺で止めてやることにする。
「ふふ。まあ秋揮さまに会いたかったのは本当ですが、これが理由では無いですよ」
「はあ、まあ……そうですよね」
 雪乃がそう告げると、あからさまに秋揮は安堵したような表情を見せる。普段の仕事ではあまり見ることの無い表情だ。
 嬉しくて、少しだけ悔しい。
「えっと……それで、今日はどうしてここに……?」
 ようやく落ち着いたのか、秋揮が雪乃の為にお茶を入れながら問うた。普段、腰に刀を差しているような男のする事では無い。まずその仕草に雪乃は驚いた。更に、彼の仕草が優美であるのに、更に驚く。
 雪乃がじっと秋揮の手元を見ているのに気がついたのか、彼は顔を上げて少しだけはにかんだ。
「あ、いや……。うちの主の為にいつも入れているもんで……」
「はあ……、本当に、仲が良いんですね」
「主曰く、『親友』だそうですよ、俺は。さ、どうぞ」
「……ありがとうございます」
 雪乃の前に、ことんと茶碗が置かれた。それをじっと見下ろしながら、ぽつりと言葉を紡いでいく。
「……ここ、蔡の国にも、信越の王族がいかに固い絆を持っているかは伝え聞いております」
「……ええ」
「秋揮さまと師匠の話を盗み聞いてしまって……すみません」
「いいえ」
「……それで、どうしても気になってしまって……その、えっと……」
 どう説明したら良いのだろうか。普段ならすらすらと言葉が出てくる筈なのに、今日に限って言葉が喉で詰まっているようだ。
 だが秋揮はそれさえも理解しているかのように、首をゆるやかに横に振った。
「分かっています。俺も全てをお話していません。……あなたに全てを話して頂いたのに、俺も話さないのは不公平ですしね」
「……では……」
「ええ。お話しましょう。俺がどうして、ここにいるのか」
 あの、火事の事を――。
 秋揮はそう呟くと、ゆるりと首を動かした。
 その先には、ひとつの燭台。そこでは既に小さな炎がつけられ、影を生み出している。
 炎がひとつ、小さくゆらめいた。