あれは、周りの空が全て橙色に変わり、そして空を照らしている肝心の陽も西へと傾きかけている頃合だった。
その時既に師匠の下で暮らしていた雪乃は、いつものように、白拍子の衣装を着て、お得意様のひとつへと向かう最中であった。
雪乃の楽しみのひとつが、広大な空一杯に広がる、その美しい色を見ること。その日も、空を見上げながらてくてくと町の中を歩いていたのだ。
そんな時だった。
ふつ、と彼女の耳に、そして全身に、いつもと違う気配を捉え、彼女はその場に足を止めた。
「……?」
どこか覚えのある、異質な気配に雪乃は周りの家々を見回していく。
だが、そこにあるのは、ごく普通の家。いつもと同じ景色が広がっているだけだ。
それでもその異質な気配は続いている。
なんだろう。そう考えた瞬間、彼女の目前にぴいんと、赤い糸が張られていた。
一瞬のその出来事に、反射的に仕込まれている呪術でそれを跳ね返しながらも、脳内には納得の感情が流れ込んでいた。
そう、これは呪術の気配だった。だからどこか覚えがあったのだ。
しかし、この呪術師は相当な使い手であるようだった。雪乃もかなり師匠から厳しい訓練を叩き込まれており、少なくともこのような時に出くわしたなら、もう少しは呪術が掛けられているということを感知できたはずだからだ。それは自負ではなく、事実として雪乃の頭にはあった。
雪乃は瞬時に地を蹴り、その場から後退した。今日は白拍子の、裾がふくらんで二つに分かれている着物を着てきてよかった、と考えながらも、ふわり、と腕にしている腕輪を見せ、ぶつぶつと言葉を呟く。
「白き力よ、日没と月が昇る合間の力を引き出し、我に与え給え」
腕輪にまるで重力が掛かったかのようにずん、とそれが重さを増し、そして何事も無かったかのように元に戻った。
だが、その一瞬の動きは、雪乃の身体能力をまるで変えていた。また、何処もしれぬ方面から、針金のように赤い糸が飛んでくるのだが、雪乃はそれを見ていたかのように、すっと最小限の動きで横に避けるのだ。そして一点をきりと見つめ、静かに声音を発した。
「そこにいるのは誰?」
簡潔な言葉だったが、有無を言わさない響き。その声を受けてか、民家の屋根の上に、ひとりの人物が現れた。
その人物は、ゆっくりと雪乃を見下ろしている。
「……」
雪乃はその人物を見て、半ば言葉を失いかけた。
その呪術師は、女性であった。それはまだいい。
だが、まだ二十かそこらを過ぎたくらいの、若い女性であったのだ。
基本的に呪術師は、訓練を重ねれば重ねるほど強い力を行使できるようになる。それはやはり経験が物を言う職業であるからであろう。
だから雪乃は、先程の力を行使する人物が、こんなに若いとは思っていなかったのだ。
少なくとも雪乃と同じくらい(そうと言っても、雪乃も十分若いが)か、雪乃よりもかなり上ではないかと予想していた。
――それくらいに、彼女の身体から発せられるのは、強い力であったのだ。
女性は、体重を感じさせない動きを見せながら、民家の屋根から地へと飛び降り、雪乃の前に立ちはだかった。どこか、まるで魂が抜けてしまったかのような、それでも何かを探るかのような視線を雪乃に向ける。
そして、ひとこと、おんな、と零した後。
「でも、呪術師」
唐突に、彼女の体がふうわりと動いていた。と思った次の瞬間には、彼女の顔は、雪乃の目と鼻の先にあったのだ。
「!」
雪乃が口を開く間もなく、女性の手は幾つかの動きを見せた。それを目にした雪乃の身体は反射的に地に伏せるかのように動く。
だがそれでも、全ての攻撃を防ぐ事は出来なかった。右肩の上からぴん、と糸のようなものが触れたかと思うと、それがずぷり、と潜り込んでいく。
灼熱感。痛い、という感情は、驚くほど浮かんでこない。
「……護りのちから。地の……力」
苦し紛れに言霊を発する。再び腕輪が重くなり、そして腕輪から言霊が地面に向かって発せられるのが分かった。
雪乃の周りの地面がゆらゆらと揺れる。そしてふうわりと、音も無く地面が盛り上がり、雪乃の周りをぐるりと回るように壁を作った。ぱらぱらと、雪乃の頭に土くれが落ちてくる。
土の壁によって、彼女を襲っていた糸のようなものはふつりと途切れたようだった。小さな音と共に痛みが僅かに揺らぐ。
その場に静寂が満ちた。
ぴいん、と様々なものが張り詰めたような緊張感。その中で、どんなに小さな音でさえ逃さないように耳を澄ます。
ちちち、と雀の音が遠くで聞こえているような気がした。前後左右の視界を塞いでしまっている今、雪乃には空しかその光景を伺う事が出来ない。
――赤い、空だ。
なんて毒々しい色なのだろう。
今までの中で、ひょっとすれば一番強い呪術師と相手をしているのかもしれないのに、どうしてか雪乃の目には、それが映っていた。
そして次の瞬間、彼女は動いていた。ぴしぴしと四方で、土が揺れる音がする。と思うと、彼女が作り上げた土の壁は一瞬にして砕け散った。
上空に飛びあがった雪乃は、飛んでくる土くれをふうわりとした袖で避け、そのまま後方へと退く。
砂埃が幾重にも層を成して舞い上がる。そしてそれらは風に煽られて、太陽を覆い隠すように、ゆらゆらと移動していった。
一本の道の遠くに、ひとりの女性が立っていた。雪乃の目にはとても小さく見えるそれに、彼女はほっと息をつく。
こうした、事前からの準備がない直接的な呪術には、距離が大きく関係してくるのだ。
基本的に呪術には、「道具」というものがないと成立しない。道具に言霊を吹き込むことによって初めて成立するものだ。
だから、こういった場合、手や身体についている装飾品が呪術師の道具となり、武器となる。
少しだけ安堵のため息を漏らした雪乃の口が、そのまま固く、凍り付いていた。
「な……」
なんて奴、と言葉にしようと口を開くと、そこから鮮血があふれ出す。その鮮やかな赤に、瞬時に肺をやられた事を理解する。
ゆらり、と視線を下に下ろすと、右胸に細い、赤い糸が何本も折り重なって突き刺さっているのが見えた。それが視覚として認知された途端、そこから鋭い痛みが溢れ出す。
自分の身体が鉛のように動かない。鈍くなってしまった身体能力と相反するように、鋭敏に、限界まで研ぎ澄まされた感覚神経が、全力で雪乃に警告する。
命の警告を。
「あ……あ……」
今までこうした場面に陥ったことは何度かあったが、それでも何とか突破口を見つけてきた。
だが、今この瞬間、どうすれば良いか見当もつかない。
どうして言霊を発せずに呪術を繰り出せるのか。どうしてこんなに距離があるのに、攻撃が目に見えないのか。
それらが全て凝り固まって、口からは妙な音しか出すことが出来ない。
ざ、ぶ、と妙な音を立てて、胸から糸が抜かれた。その衝撃に、ついに膝が負けてしまう。
かくん、と膝をついた雪乃に向かって、ゆっくりと女性は歩いてきていた。
彼女は、笑っていた。
痛々しいまでに、幼子のような表情で。にい、と口を吊り上げて。雪乃の向こうを見ているような、虚無の瞳で。
その時、雪乃は初めて、人に対しての恐怖を抱いた。
圧倒的な人としての何かを超えた者。
ちりちりと、胸を痛みがつらぬいていく。どうしようもなく歯の根が合わなくて、かたかたと唇が震える。
ゆっくりと、ゆっくりと視界が狭まる中。その女は少しずつ近づいてきて。
そして。
ゆっくりと、雪乃の横を通り過ぎていった。
「……?」
確実にとどめを刺されると思っていた彼女は、その女の意外な行動に、しばらくは動けなかった。後ろを振り返ろうとして、そして――。
「……私が覚えているのはそこまでです。どうやら師匠が、近くで呪術を使われた気配に気がつき、様子を見に来てくださったので、私は助かったらしいと師匠から聞きました。使われている技などを呪術師達の噂と重ね合わせた結果、それが巷で有名な黒揚羽だということが分かったのです」
雪乃はそこまで話して一息ついた。話している内に蘇ってきた薄ら寒さを解消するために、お茶で一息入れる。秋揮は、しばらく俯いたまま、何事か思案している様子だった。
しばらくすると、考えがまとまったのか、くっきりと顔を上げて雪乃を見る。
「色々とお話をありがとうございました」
幾つか参考になるかと思います。秋揮はそう言って、深々と頭を下げた。
その時、障子の部分にふ、と影が現れる。その影はするりと障子を開いて、雪乃へ声を掛けた。
「子供たちがお前さんを呼んでいるよ。お話が終わったのなら、子供達の所へ行きなさい」
「師匠」
穏やかだがきっぱりとした口調の言葉に、雪乃は頷くしかなかった。いつになく、らしくない態度に心の中で首を傾げながらも、秋揮に会釈して障子の向こうに出る。
「……まさか、そういうことだったとは……」
言われたとおり、子供達の所に行こうとした雪乃は、師匠の言葉に思わず足を止めていた。彼女が今いる場所からは、自分が立ち止まって話を盗み聞きしているとは分からない。
だが、ここに気配がある事は分かるだろう。
それでも、二人が会話を止める様子が無い事に、おそらく立ち聞きしても構わない話なのだなと、雪乃は感じていた。
「黒揚羽という呪術師が何らかの組織を作り、暗躍していることは知っていましたが、その彼女が、虎王の妹君とは予想外でした」
「……そうでしょう。私達も未だに困惑しております。――こうして、星虎様が、私を密命として動かすほどに、王も未だ迷っていらっしゃるようです」
秋揮の言葉に、ふたりの間に僅かな沈黙が生まれていた。
「今の虎王、星虎様は、かなり決断が強い方として有名ですからね。ですが流石に、自分の身内であればお迷いになられるのも……」
「それは誤解なのです。……この前、信越の本殿が焼けた、という話はご存知ですか?」
「ええ。風の噂では、呪術師が……」
師匠はそこまで言って、秋揮が言った言葉に含まれている意味に気が付いたようで、言葉を切った。秋揮が頷いているような気配を見せる。
「そうです。これも極秘情報ですが、紛れも無く、揚羽さまが行ったのです。私も、星虎様も、あの場にいました。――揚羽さまの変化をこの目で目の当たりにしたからこそ、星虎様、いや、星虎も未だに戸惑っているのです」
そう告げた秋揮の声にも、僅かに戸惑っているような響きがあった。
雪乃は座って静かに書に目を通している子供達の監督をしながら、開け放たれている縁側を眺めていた。
縁側の向こうには、師匠と、彼に頭を下げている秋揮の姿がある。ゆっくりと、だが確実に歩みを進めるその姿を見ながら、雪乃はつい先程の二人の話を思い返していた。
(……虎王とあなたは、上司と部下以上の関係なのですね……)
(……はい。特に私は、星虎とも歳が同じで、小さい頃からお城に仕えておりましたので。先程は密命、と申し上げましたが、星虎のお願いで、こうして動いています。――私も、揚羽がどうしてああなってしまったのか、疑問に思っていますし)
(……一体、どうお変わりになられたのですか?)
(それが……本殿に火がかかる前日までは、確かに揚羽はいつも通りの彼女だったのです。ですが……)
「できましたぁ!」
あどけない声に、雪乃は現実に引き戻された。目の前には、彼女が出した課題を記し終えた子供が、にこにこと彼女の反応を待っている。
「はいはい」
雪乃はそれを受け取りながら、ふと、朝の出来事を思い出していた。