それから数時間後。子供達が来る少し前に雪乃は布団から抜け出して準備をしていた。
今度は着物をきっちりと着て、そして奥の部屋から、教えるのに使う細々としたものを取り出してくる。それを他の部屋よりもひとまわり広めの部屋で並べている時、いつもよりも早くその場に師匠がやって来た。
「……あら、どうしたの?」
「お前にお客様だ。何か、聞きたいことがあるらしい?」
「……? 何かしら。夜のお仕事の関係?」
雪乃の言葉に、師匠は首を横に傾ける。
「初めて見る顔だ。しかも雰囲気からして、武術に通じる者だな。本人は傭兵と言っていたが、どうだか」
師匠はそう言うと、眉を上げた。これは少しながらも不快である事を示す動作だ。二人は呪術に通じる者達だ。職業柄様々な人と接する仕事であるし、人一倍色々なものを見抜く勘には優れていた。おそらく、彼の言葉に何か含むものがあったのだろう。
「ま、正面きって尋ねて来ているのだから、そこまで警戒する事もないでしょう」
雪乃は師匠の機嫌を取るために微笑すると、立ち上がって歩き出した。後ろから師匠もついて来る。
「お茶を用意するわ」
「いや、私が入れる。お前へのお客様なのだから、あまり待たせてはいけないだろう」
「……そう、分かったわ。よろしくお願いしますね」
雪乃はまあもっともだと頷くと、お客を通している部屋へと足を向けた。幾つかの回廊を抜け、その部屋の前に辿り着く。
この家は、やけに敷地だけ大きいのだ。住んでいる人は僅かに二人だけなのだが。
「……失礼します」
雪乃は正座をしながら、すっと障子に手を掛けて、障子を横に開いた。
「あ、お忙しい所急にお尋ねしてしまって、すみません」
そうどちらかと言うと柔らかめな声音を発しながら座っている座布団から立ち上がってお辞儀をしたのは、どこか真っ直ぐな印象を与える青年だった。
「いえいえ。こちらこそお待たせしてしまい、申し訳ありません」
雪乃は侘びを入れ、彼の正面に座りながら彼をこっそり観察した。
一見すると普通の人のように見えるが、その視線や、仕草などから先程師匠が述べたように、武術の達人である事が分かった。
彼が持っているであろう殺気という気配は綺麗にその表情の中に隠されているようであった。雪乃が隅々まで気配を感じ取ってみても、どうやらそれを汲むことは出来ない。
「今日お尋ねしましたのは、今、重要な件でどうしてもあなたにお聞きしなければいけない事があるのです」
彼はそう言うと、何かを躊躇うような仕草を見せた。そうしている間に、障子の向こうから気配と声がして、師匠が現れた。
おそらく気になるから高速でお茶の用意をしてきたのであろう。普段のんびりと動作を取る師匠が、今日はやけに来るのが早かったので、口元が緩みそうになるのを思わず堪える。
「……――えっと、仙石さまもよろしければなのですが、ご一緒に聞いていて欲しいのです」
師匠はその言葉に、それなら是非、と雪乃の隣に座った。仙石とは二人の苗字だ。相変わらず師匠は名前を名乗らない。
「これからお話します事は、必ず他言無用でお願いしたく思います。必ず、です」
その言葉に、雪乃の眉が上がった。あまり良い感じの話ではないから、だと思ったからだ。師匠の目元も、普段から厳しいが、より一層厳しさを増している。
「もしこの話を周りに漏らしてしまうようでしたら、私は、あなた方を手に掛けなければならない事になってしまいます」
「――人を訪ねておいて、随分なお言葉ですね」
師匠が冷静に言葉を放つ。少し厳しい言い方だが、もっともな言葉だ。
「申し訳ございません。ですが、これからお話しますことは、そう言った類のお話なのです。呪術を生業にしているあなた達なら、少しはお解かりになって下さるかと思いまして」
青年は、そう言って苦笑した。確かに彼は一目見ただけで武術の達人に見えるが、この師匠に勝つことなど出来るのだろうか。
「勿論お話を聞くことをお断りすることも出来ます。それを決断なさるのは、あなた達の判断です」
「――もし私達が話を聞いたとして、人に漏らしてしまった場合、私達と戦うことになるかと思いますが、返り討ちにされてしまうかもしれませんよ?」
雪乃の不敵な言葉に、師匠が少しだけ目をこちらに向けた。雪乃を支持しているのか批判しているのかどちらとも言えないその表情に、彼女は少しだけ苛立つ。
だって、この事は師匠だって分かっている筈なのだ。確かに客に対して失礼な発言続きではあったが、これはお互い様なことなのだ。だから、言わずにはいられなかった。
彼は、その言葉を聞き、初めはきょとんとした表情を見せていたが、唐突にふ、と笑みを見せた。
目だけが酷薄に、そして青く、冷たく瞬時に移り変わる。
「――そうでしょうか」
その言葉と同時に一瞬だけ発した気配に、雪乃の背中が粟立つのを感じた。
それは、今まで感じたことも無い、冷たくそして強い、殺気だった。
「……私も呪術師です。では、このお話は呪術の依頼を受ける、という感じでお聞きすれば良いのですね?」
師匠が隣でぽつりと呟いた。それは話を聞く、というサインのようだった。
確かに呪術師は人からの依頼を受ける時、その依頼の事柄上の事もあって、普通は他言無用だ。白呪術はそこまでの依頼はあまり来ないものだが、黒呪術は本当に危ない依頼も来ることもあって、あまり普段から人と関わる事も無い程である。
雪乃も、師匠の言葉を聞き、諦めと覚悟を表情に表した。お客が他言無用にしてくれと言っているのだから仕方が無いことだし、そうしてくれと言われると、興味が湧いてしまうのは人の心理と言うものだ。相変わらず俗っぽい考えだな、と思い、まあでも自分はこんな人間だから仕方ない、と開き直った。
「それでは、お話させて頂きます。まずはきちんと身の上をお話してからですね」
彼はそう言うと、佇まいと少しだけ直した。
その瞬間、雪乃には彼の顔が、先程の少しだけ柔和な印象を与えるものとは全く違う、別人の顔に見えたのだ。
さらに、彼が発した言葉は彼女に追い討ちを掛けた。
「改めて初めまして、と申し上げましょうか。私の名前は橘秋揮と申します。越国虎王、星虎様の下で正四位、将軍の官位を賜っている者でございます」
彼――秋揮は先程は嘘をお話してしまい、申し訳ございません、と言うと、そのまま頭を下げた。
雪乃も、師匠も、彼の動作を見たまま何も言葉を発しなかった。否、発せなかった。
「……え?」
ようやく一言だけ発する。今、雪乃の目の前にいるのは、髪も軽く束ねただけし、着ているものも軽装だったが、紛れも無く将軍の風格を漂わせるものだった。
隣で師匠が、軽くため息をついたのを聞き、ようやく身体の強張りから解放された。ふう、と雪乃もため息を吐く。
だがそれ程までに、彼の正体は雪乃に衝撃を与えるものだったのだ。
「やれやれ。本当に傭兵か、と思っていたらこう来ましたか」
師匠が苦笑しながらそう言った。雪乃も確かに、と呟く。
雪乃も、彼女が頭が上がらない師匠も、呪術が出来るただの一般人だ。正四位、とは国を治める官位の位の高さを言い、秋揮が持っている高さは宰相、官長に告ぐ位の高さなのである。しかも正四位とは将軍職の中でも一番上の位だ。
文字通り、二人にとっては、雲の上の存在なのだ。それほどの人物が、なぜこんな所にいるのだ。自然、二人の疑問はここに行き着く。
「私は今、星虎様の命を受けてある人物を追っているのです」
二人の疑問を見透かしたかのように、秋揮はそう続けた。
「ある人物、ですか?」
「ええ。雪乃さんが、お会いした、と申し上げるよりも遭遇した、と申し上げた方が良いでしょうか。ともかく、遭遇した、と私の耳に入れましたので」
彼はそう言うと、ふと真剣な表情になった。
「あなたは以前、『黒揚羽』と呼ばれる人物にお会いしていますね?」
その言葉を聞いた瞬間、雪乃の視界が一瞬ぐらりと揺れた気がした。
歪んだ笑顔。
薄桃色の可憐な着物。
あの時の出来事が一瞬で頭に甦る。あの、体中が燃えるような灼熱感と共に――。
黙りこくった雪乃を案じてか、師匠が話を続けていた。
「――黒揚羽とは、呪術師界隈でも有名な噂の種になっております。どうして、それをあなたのような人が追っているのですか?」
確かにそうだった。彼等の話は随分と噂になっているから、国が動いたとしても可笑しくないが、なぜそれを追うのが、雲の上のこの人なのだろう。普通なら、彼が命令をして、部下に追わせるだろう。
「ここからは、機密事項なのですが。おそらく、黒揚羽の本名は鈴奈院揚羽」
「え」
思わずその名前を聞いて絶句した師匠に、秋揮は深く頷いていた。
「鈴奈院星虎様の、妹君なのです」
しばらく、三人がいる部屋は静まり返っていた。雪乃と師匠は告げられた事実に驚きを見せ、秋揮は落ち着き払った仕草で、出されたお茶を啜っている。
そんな中、部屋の外からこんにちはぁ、と言う元気溢れる声が聞こえてきた。その声に、師匠が腰を浮かせる。
「――子供達が来てしまったので、私は退室させて頂きます」
「お忙しい中すみません」
なんなら、もう一度お時間のある時に出直して参りますが、と言いかけた秋揮を制して、師匠は雪乃に、彼にお付き合いして差し上げるように、と告げた。
「おそらく、それが貴女の為でもあるだろうから。道場へは無理して来なくても大丈夫だ」
「……分かったわ」
それまで、魂が抜けてしまったかのように黙りこくっていた雪乃は、表情を取り戻し、ひとつ頷いた。それを見て、師匠はそれでは、と退室していく。
「……仲がよろしいんですね」
それを見ていた秋揮が、ぽつりと呟いた。雪乃はまあ、と頷く。
「師匠に拾って頂いてからもう随分経っていますし、今では親子みたいなものです」
「親子……」
秋揮はぽつり、と呟くと、くすり、と笑みを漏らした。
「確かに」
その笑みはどこか寂しさを醸し出すような笑みで、雪乃の額に思わず皺が寄りそうになる。感傷的になるのは嫌いだ、と思って、出来るだけ淡々となるように話しかけた。
「それで……何を話せばよろしいのでしょうか?」
雪乃の問いに、出来るだけ話せるだけの全てをお話して欲しいのです、と秋揮は静かに答えた。
「全て……」
雪乃はぽつりと言葉を落として、そしてもう一度、口を開いた。