第三話 白拍子
夜が明ける。
全てを覆い尽くしていた闇の空の端に、小さな点が浮かんだかと思うと、ゆっくりとだが確実に赤い光が広がっていく。
どこか遠くで鶏が鳴いた。少しずつ騒がしくなっていく、大地。
「……」
それを雪乃は静かに空いた障子の隙間から眺めていた。どこか気だるさを感じさせる表情がその薄暗い中、面に浮かぶ。
彼女は薄い赤の寝巻きを纏っていた。だが帯はだらしなく緩み、ちらりと太ももが垣間見える。胸の部分もほとんどはだけている状態だ。彼女がいる部屋には明らかに彼女以外の、もうひとつの気配があるのだが、彼女はまったく自分の今の姿に頓着していないように見える。
そのもうひとつの寝顔をちらと見て、雪乃はふと、煙管で煙草を吸いたいと無性に思った。同業者の一部では流行っているらしいが、生憎雪乃はそれを持ち合わせていない。
そしてもう一度雪乃はその夜明けの空を眺めていた。もうひとつの気配には身じろぎもしない。
そもそも、もうひとつの気配が男のものである事と彼女の今の格好から、この部屋で何が行われていたのかは一目瞭然なのだが、その男は彼女の恋人でも何でもない。ただのお得意様である。
雪乃は二つの顔を持っている。ひとつは今の仕事、白拍子だ。この世界では遊女に似たような仕事で、夜の席で芸を披露し、時にはこうしてその後も付き合う事があるのが常であった。そしてもう一つは、彼女がこれから帰る家に関係してくる仕事である。
静かにため息を吐いた。
「……起きていたのか」
「ええ。起こしてしまいましたか?」
布団の中でゆっくりと腕を動かしながらこちらを見てきた男に、彼女はやんわりと首を傾げた。じっと見つめられても、そのはだけた肌を隠す事はしないようである。それを良いほうに捕らえたのか、ふと男が微笑していた。
雪乃にとってはそれはどうでも良いことの一つだ。ただ口の端を上げ、寄りかかっていた窓際から床に足を着く。
「何だか夜が明ける事が寂しいと思えるのは、久方ぶりだな」
部屋の隅で着替えを始めた雪乃の耳に、そんな言葉が届いた。彼女がこのお客の所で商売をして随分と経つが、初めて聞く彼らしくない言葉に、そっと振り向く。
彼は布団の上に以前茫洋ととしたままである。髪を乱暴に撫でて、それから苦笑した。
「いや、なんとなくな、お前はもうここには来ない気がするんだよな」
「……何をおっしゃいますか。私はどこかに出向くと言う予定はありませんよ」
常に現実的な彼の、らしくない言葉に雪乃も苦笑した。
確かに彼女の頭の中では、今日の予定も常と同じ日程である。
確かにそれは、お得意様の玄関を出て、住んでいる所に戻るまでは、一致していた。
雪乃はいささか乱暴な着方の着物のまま、見た目は道場のような、寺子屋のような建物の中へと入っていった。
「ただいま戻りました。ふわあ」
入り口でそう告げながら草履を脱ぎ、素足でそのまま奥へと進む。奥の、やたら広い間の部屋を抜けると、そこにはひとりの男性が黙々と朝餉を作っている所であった。
「お帰り。……またその格好で帰ってきたのかい」
「良いじゃない。私の好きなんだから」
その長髪をゆるりと束ねた男性は、振り向いて眉を顰めた。彼はもうすぐ壮年に差し掛かるはずなのだが、一向に老いを見せる気配はない。だが、その声の調子や、澱みない手つきで進める朝餉の準備に、僅かに年の功を感じさせるものがある。
彼は雪乃の親代わりの存在であり、白呪術師の師匠でもある。
「ああ眠い。朝餉の後、子供達が来るまで少し眠らせて頂いても良いかしら」
「ああ、構わないよ」
欠伸をしながら、隣で準備を手伝う雪乃。その手つきにも、澱みは見られない。二人の間には、長年の間の積み重ねによる、心地よい沈黙が流れている。
彼女達は、白呪術を生業として生活している者達であった。白呪術は、黒呪術と対抗するひとつの術派だ。どちらが悪い良いの区別は無く、ただ、割と黒呪術は密教に似て、秘密主義な事が多い。反して白呪術はこうして彼らがしているように、門戸を開いて、広く教えられている。
雪乃がこの道場での仕事の他に、夜の仕事をしているのは、単にもともと彼女の仕事が白拍子であったからであり、その名残りにすぎない。
「さて、出来たかね」
師匠が最後に味噌汁を椀によそい、それを卓に並べると、二人は静かに地に座った。
相変わらず沈黙のまま、二人は味噌汁を啜る。それは、二人が話す事が表立って好きではないことに加え、いつもの仕事上、沈黙する事が当たり前であることにもある。
「それにしても、不思議な朝だな」
「え?」
「何だか今日は、いつもと違うように感じる」
そんな食事の最中、唐突に彼が零した言葉に、雪乃はぽかんと口を開けていた。
「そんな事を言われるのは、二度目だわ」
「……そうか」
彼は笑みとも怒りとも取れない、何とも不思議な表情を浮かべてみせた。誰に、とは聞かない。そんな事を聞かなくても、今日、師匠に会う前に言う人物など決まっているからだ。
「……師匠も案外気障なのね」
「馬鹿を言うな」
眉を上げて言った彼女の言葉に、今度こそは憮然とした表情をはっきりと見せる。そんな彼が面白くて、つい雪乃は口の端を上げていた。
「何が面白い」
「師匠のそうしている所」
「……」
さらにむっつりとした表情でご飯をかきこむ師匠に、小さく声を上げて雪乃は笑うと、スッと音も無く立ち上がった。
「ごちそうさま」
「……ああ」
そして食器を片付けた後、彼女は先に彼に断っていた通り、自分の部屋の寝床に潜り込んでいた。
不思議な日。
少なくとも、雪乃には今日が不思議な一日とはどうしても思えなかったのだ。
朝食を摂って、少しの間睡眠を取って、子供達の面倒をみて……。今日もいつもと同じ予定が彼女の頭を巡っていた。