目の前の空間が微かに揺らいだ瞬間、再びあの女が音もなく出現した。暗い中、その表情までは読み取ることが出来ない。
 秋揮は刀を構え直すと、静かに地面を蹴った。
何もない空間を睨み、刀を振るっていく。
 何もないと思われた空間から、プツン、プツンと糸の切れる音がした。
 女の目の前にそのまま降りて、刀を一閃した。
 女の姿が揺らりと揺らめいて、ふっとかき消えた。
 やはり、幻影か。秋揮は唇をかみしめながら、瞳を閉じた。
 精神を再び集中させる。部屋が一瞬静かになったかと思った瞬間に、両耳に、糸が振るわれる太い音がする。
 それでも秋揮は動かずに、その場に立っていた。
 
 そして。
 両耳に、明らかに糸とは違うごく僅かな音が届いた。
 秋揮はその音を逃さず、刀を持っていない手を思い切り伸ばした。
「あっ!」
 女の叫び声と共に、秋揮は自分の手に、女の腕の感触を覚えた。
 そのまま、床に引きずり下ろす。
「くそっ……」
 女が小さく舌打ちをしたのが分かった。先程までの女らしい行動とは偉い違いである。
「あまり手荒な事は趣味ではない。一つ程、聞きたいことがある」
 秋揮は油断なくその女に刀の切っ先を向けながら、淡々と無表情に言った。
「俺は命令でね、『揚羽』という子を探しているんだ。知らないかい?」
 瞬間、その女が小さく息を呑んだのが分かった。
 やはり繋がっているのか。秋揮が小さく息を吐いた時、部屋に不思議な気配が出現したように感じた。
 思わず、その女から二歩程後退する。
 何だ、この気配は。
 部屋が暗いので視界も思うように晴れてはくれない。しかし、秋揮の戦闘時の本能とでも言うべきだろうか、それが秋揮にひたすら危険、と勧告をしてくる。
 新しく部屋に出現した気配は、その女よりもひたすら邪悪で、濃い。
 息が詰まりそうになる。
「あ、あ、あ……」
 女が、かぼそく悲鳴を上げた。どうやら、この女には、何かが見えているらしい。
 秋揮は刀を構えつつ、女を凝視した。もっとも、よくは見えないが。
 
 次の瞬間、ずるり、と吐き気を催すような気味の悪い音と同時に、女の身体が床に吸い込まれ始めた。
 数々の呪術を見てきた秋揮にも、その異様な光景に思わず目を瞠った。
「なっ……!」
 どうやら、床にある黒い影が、女を吸い込んでいるらしい。
 女は、両目を大きく開け、涙を流しながら何かを叫んでいる。
「お、お許しください、お許しください……!」
 お許しください? という事は、この現象は彼女が引き起こしているという訳ではない、という事か。
 もう既に、女は身体の半分以上を吸い込まれ、残るは、頭と上半身の一部のみとなっていた。
 その女を捕まえなければならない。自分の追っている事柄に繋がっている人物だから。
 だが、危険、と勧告をしてくる身体が、それを阻む。
 予想以上に邪悪な気配だ。
 そうこうしている内に、最後に彼女はこう叫んで、消えた。
「お許しください……、黒揚羽さまあ……!」
 彼女が消えると同時に、その邪悪な気配も、消える。
 窓の外では、月がその存在を主張し始めていて、秋揮の部屋を白く照らしていた。
 そこに、彼女がいた痕跡はない。
 邪悪な気配が消えると共に、痛みを主張し始めた肩をかばいつつ、秋揮は部屋の灯を再び付ける。
 部屋をざっと見回した秋揮は、とある物を部屋の中心に見つけた。
 床にかがんで、指でつまみ上げる。

 赤い糸。

「揚羽……」
 秋揮の脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。