5.透明


 彼女はいつでも、幼い子供のように真っ直ぐな瞳をしていた。どこか違うところを見ている、その瞳。
 彼女は何かを超越した存在だったように、今では思う。彼女は他の女の子よりもかなり指が長くて、そして恐ろしくピアノを弾くのが上手だった。
 彼女は中学生の時点で、既に将来を期待されたピアニストだった、らしい。らしい、というのは、僕と彼女は同じクラスだったのだが、僕が通っていた大学は音大では無かったからだ。
 彼女は大学では決して音楽の事を語らず、いつでもまじめに勉強していた。彼女は何人かとグループで行動する事も多かったし、ひとりでいることも多かった。
 既に大人の自立している人、そんな感じの性質だったから、彼女の周りには不規則に友人の輪が出来ていた。だから僕も、時々彼女と過ごす事があった。
「それ、何の本?」
 僕達は文学系の学部だったから、本を好む人もそれなりにいる。彼女もそのひとりで、よく教室の片隅で本を読んでいた。
「哲学の本」
「哲学? また随分と難しそうだなぁ」
 たいして頭は良くないと自負している僕はそうそうに匙を投げると、彼女は、そうねえ、と難しい事に同意した。
「でも、なかなか興味深い言葉が幾つかあるよ。これはニーチェの本なんだけど、『勇気は最善の殺害者である』って言葉があるの」
 彼女の口から、すらりすらりと出てきた言葉に、僕は目を白黒させるだけだ。
「ふふ、私も良くは分からないけど。でも、こう書いてあるのよ。『それにしても、勇気は最善の殺害者である、攻撃する勇気は。それは死をも打ち殺す。つまり勇気はこう言うのだ。これが生だったのか。よし。もう一度と』ってね」
 この最後の言葉、素敵だと思わない? 彼女はそう言って本から顔を上げると、また小さく笑った。
 だが、残念ながら僕には、彼女の言っている事が理解できずじまいだった。ただ覚えているのは、その時の彼女の瞳は、いつものように凪いだ湖面のような瞳だった。
 そう、彼女はいつも、人には無い、不思議な瞳をしていた。
 不思議と彼女の目を見ながら話すと、今まで抱えていた問題事が綺麗に整理されていく気がしたのだ。おそらく彼女の友人達も、口には出さなかったが、僕と同じ気持ちを抱えていたに違いない。
 彼女は常に、誰かから相談を持ちかけられ、いつも彼女はにこやかに応じていたからだ。

 僕はその時期、オーケストラのサークルに入っている女の子が恋人だった。彼女は僕があまりクラシックに詳しくないことを知っていたから、僕とコンサートに行くことなどしなかった。
 だが、ある日、彼女は珍しく僕にチケットを一枚、渡してきた。
「どうしたの? これ。ピアノリサイタル?」
 ただ戸惑う僕に、一緒に観にいって、と彼女は珍しくお願いしてくる。
「この人、私大ファンなの。隆志の大学の人でしょ? 今度、サイン貰ってきてよ」
 彼女の言葉に戸惑いながらチケットを見下ろすと、そこには「西川 杏 ピアノリサイタル」と書かれていた。
 ――彼女の、名前だった。
 そうして、僕は恋人に半ば強引に引っ張られて、ちょっと小さめのホールにやってきていた。
 彼女の話を聞いている内に、僕がたまに話をするあの人は、どうやら凄い人だという事が分かってきた。
「何でそんなに驚いてるの? 西川さん、隆志と同じ学科でしょ?」
「いや、そうなんだけど……」
 むしろ、だから驚いてるのだ。でも、何となくそれも納得できるような気もちらほらしていた。友達達が騒いでいる横で、ひとり優雅に窓の外を見つめている彼女。そして会話を振られると、何事も無かったかのように女の子達の会話に加わる。
 常にあちこちへと天秤が揺られてしまいやすい今の僕達の時期に、ひとり確立した何かを持っていたのは、これのせいだったのだろうか。
 彼女とたわいない話をしながら、客席へと足を運ぶ。小さいホールとは言え、客席はほとんど埋まっている状況だった。それ程に彼女は有名なのだ、と改めて驚かされる。
 隣で僕の恋人も、まるで子供のように頬を赤く上気させて、開演するのを待っていた。
 そして、少しずつホール内の光が絞られて、ついにリサイタルは開演した。
 もうひとりの彼女、ピアニストの西川杏が、客席からの拍手を受けながら登場する。
 薄い空色のドレスを纏った彼女は、いつもと全く同じ雰囲気だった。あの、僕とニーチェについて話した時や、グループでいる時と同じ雰囲気。
 今日も透明とでも言うべき、清廉な空気を彼女は身に纏っていた。
 そして、ゆっくりと彼女の手が鍵盤の上に乗り、音を奏で始める。
 ああ、と僕はその音に耳をすませた。
 彼女は透明なのは、彼女自身が空なのだ。
 彼女が奏でる音は、僕に日の光を浴びせ、涼やかな風を運んでくる。そして大嵐を起こし、最後に澄み切った空気を作り出すのだ。
 彼女が生み出す、幾つもの豊かな音階の音が、会場全体に様々な空の風景を運んでくる。
 僕は最後の最後の余韻が消えるまで、その音にそっと耳をすませていた。

 僕が彼女のリサイタルに行ってから、彼女は学校に来なくなってしまった。
 まあ大学とは、少し休んだってそれがまかり通る世界であるし、どこまでも自由主義なので、あまり僕達も心配しなかった。
 だがそれが一ヶ月と長期に及ぶにつれ、僕達の間では不安が広がっていった。友達のひとりが彼女と連絡を取った所、どうやら入院しているらしいという事が分かった。だが、病院名を教えてもらう事は出来ずじまいで、僕達はただ気を揉んでいる事しか出来ずにいた。
 入院しているというのはもしかしたら嘘かもしれない。
 彼女はきっと全国、いや全世界でリサイタルを行っていて、学校では一切自分がピアニストである事を明かしていなかったから、それを隠すための嘘なのかもしれない。
 あんなに普通にリサイタルを行っていた彼女の姿が脳裏に焼きついていた僕は、微かにそうでは無いかと思っていたし、サインをねだる恋人も、きっとそうだと頷いていた。
 だから僕はあまり心配していなかったのだ。
 どちらにしろ心配しても、どうする事も僕達には出来ない。ただ僕達はいつも通りに過ごしていた。
 そんなある日、僕の恋人は慌てた様子で電話を掛けてきて、テレビを見てくれ、と言ってきた。その尋常じゃない慌てぶりに、何の事件が起きたんだ、と聞き返しながらテレビを付けて――僕は次に続ける言葉を見失ってしまった。
 そこには、白いベッドの隣にあるグランドピアノで、一心に音を奏でている彼女の姿が映し出されていた。
「神の手を持ったピアニスト西川杏、若年性の癌により志半ばで亡くなる」
「え……?」
 僕は馬鹿みたいに突っ立って、テレビを眺めるしか無かった。固まりついてしまった右手にある携帯電話から、彼女がうろたえている言葉が聞こえてくる。
 だが、今の僕には、その言葉を理解することは出来なかった。
 脳内を流れるのは、彼女のあの日の言葉。

「つまり勇気はこう言うのだ。これが生だったのか。よし。もう一度と、ってね」

 彼女は一体、あの時何を思って、その言葉を口にしたのだろう。彼女は一体、どうしてこの言葉を素敵だと思ったのだろう。
 頭の悪い僕には、今でもその意味は分からない。ただ、分かることはひとつ。
 彼女の瞳は、いつでも――透明だった。

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