7.扉


 扉とは、不思議なものなのではないか。私はそんな事を感じながら、ひとつの扉をそっと開いた。
「やあ、今日の調子はどう?」
「……今日も来てくれたんだ。今日はまあまあだよ」
 私はカーテンの向こうにそっと話しかけながら、中へと滑り込んだ。
「カーテン、開けるね」
 白いカーテンを開いて中に入ると、そこには点滴の管につながれた馨が横たわっていた。三日前に来た時よりも、さらに細くなってしまっているようだった。ゆっくりと身体を起こしながら、彼は私が差し出した文庫本の束に、目を細めた。
「ご注文の品をお届けに参りました」
 私はおどけて肩を竦めながら、テーブルの上に本を並べていく。それは馨に頼まれて、図書館で借りてきたものなのだ。本好きな馨はたちまち頬を赤くさせて喜んでいるようだった。
「検査の結果はなんだって?」
 一冊の本を手に取り、今にも読書に没頭しそうな馨に、私は声を掛けた。それに思い出したかのように馨は、テーブルの端に置いてある紙切れを指す。
「まあ少し悪くなったくらいだよ。もともと全体的に悪いのは変わらないし」
「そうね」
 軽い調子でそう言う馨に合わせて、私も軽く返した。
 馨は若年性の癌だ。末期な為、残り一月くらいの寿命だろう。だが、彼も私も、どこかそういった事に関して、他の人と考えは違うらしい。馨は最初に余命宣告を受けた時、「そうですか」と言ったきり、顔色ひとつ変えずに今日までを普通に過ごしているし、私もまたしかりだ。
 馨が生の終わりを見据えて、死というものを受け入れているのならば。私が何か手を出す立場にはないのだ。
 いつも通り、できるだけ馨と一緒に生活して、そして馨を見送る。それだけだ。
 私はベッドの隣にある椅子に腰掛けて、もう一度扉を振り返った。
「ねえ馨。扉って不思議なものよね」
「うん?」
 馨は既に本の世界に集中しているようだった。返事が上の空である。
「扉はあんなにうすっぺらいのに、あれひとつあるだけで、世界が仕切られる。廊下と病室。ふたつの世界」
「……うん」
 馨は相変わらず上の空のようだった。その方が私が今考えている事も言いやすい、と思った。
「――生の世界と、死の世界の間にも扉があると良いのに」
「うん」
 本に完全に熱中している馨は、相変わらず上の空だ。そう思っていた。
「そうだね。そうだったら一年後だって明日香に、こっちの世界の本を届けてきてもらえる」
 唐突に馨の言葉が宙を浮かんだ。まさかきちんと話を聞いているとは思えなかった私は、ぽかりと口を開いたまま固まってしまっていた。
「ん? どうしたの?」
 馨は本から顔を上げて私を見ていた。
「うん。まさか馨が話を聞いているとは思えなくて。ちょっとびっくりしたの」
「ふふふ。面白い話だなと思ってて。……明日香はやっぱり、今の状況は辛い?」
 馨は少しだけ笑うと、いつもの調子で言った。優しい声が私の耳から染みていく。
「馨は?」
 咄嗟に答えられなくて、私はそう聞き返した。
 これは馨の問題だから。私が持っている感情を吐き出すのはおかしいと思っているけれど。でも私は残念ながら馨のように達観した人間ではない。
「ずっと辛いよ」
 ぽつりと零した馨の言葉に、だから私はさらに驚いた。
「僕達は生きて、そして必ずいつか死んでいく。だけど、こんなに早く明日香と別れる事になるとは思わなかったから。ずっとこっちの世界の本を読んでいける明日香が羨ましいし、明日香を置いていってしまうのかと思うと、とても辛い」
 扉があると良いのにね、って僕も思うよ。
 馨はいつだって、とても優しいのだ。今だってどこまでも優しい声音で、そう言うのだ。
 だから、いつだって泣いてしまうのは、私の方なのだ。
 今だって。
「……もしも……扉があったなら、必ず……本を持って……いく」
 扉が無くたって、必ず持っていくから。
「うん」
 そっと頭に伸びてきた馨の手は、弱々しくてもやっぱり力強くて優しい馨の手で。
 私はその温かさが限りなく短いものである事に、やっぱり涙を零してしまうのだ。

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