つくづく旅も大変だ、と胸の内で呟きながら、橘 秋揮(たちばな しゅうき)は宿場町の通りの中へと足を踏み入れた。
もう陽も落ちかけているこの時分、その通りは今日の宿を探す旅人、はたまた少しでも客を呼び込もうと自分の店の前で客引きをするの宿屋の看板娘で賑わっていた。
秋揮のいるところは、北は険しい四明山(しみょうざん)に囲まれ、南は海に囲まれた一帯で、秋揮のようにここに住む者たちは、この一帯を花刺子模(ホラズム)と呼ぶ。花刺子模は五つの国に分断されていて、秋揮が今いるこの宿場町は、北を四明山、他の三方を四つの国に囲まれた内陸国の越(こしのくに)と呼ばれるところだった。
「若旦那、今日は新しいお酒が仕込まれたんですよ。いかがです? お安くしときますよ?」
濃い青の羽織をかきあわせていそいそと歩いていた秋揮に、一人の女が声をかけてきた。その店の看板娘らしく、薄い桃色の着物を着た十七、十八ぐらいの少女である。
「酒か。いいな。このところはあまり飲んでいなかったからな」
秋揮はひとまず今日の宿はここにしようかと、いかにも老舗という雰囲気を漂わせた宿屋に足を一歩踏み入れた。客引きをしていた少女に晴れやかな笑みを浮かべる。
途端にその少女は頬を真っ赤にして、ぷいと横を向いてしまった。秋揮は、何か悪いことでもしたのかと、訳が分からず首をかしげる。
無理もないだろう。秋揮はまったくもって気付いていないが、彼は少年とも青年ともつかない儚げな雰囲気を漂わせた美貌の持ち主である。体つきもそんなにがっしりしたものではなく、一見するとどこかのお坊ちゃんのようなので、彼を誘拐して身代金をふんだくろうとする輩も少なからず存在するのだが、実は、彼はその晴れやかな笑みでその輩を返り討ちにするほどの腕前の剣士でもある。
秋揮が宿に足を踏み入れた時、廊下の奥に消えていく一人の女が見えた。
何故だろう。後姿を見ただけなのだが、妙に鮮やかに秋揮の目に映った。
「……?」
(今の人はお客なのだろうか)
「じゃあ、ここに記帳をお願いします」
受付で、その店の女将らしき人が、筆を差し出してきた。
秋揮は記帳しながら、それとなく尋ねてみる。
「あのー、ここに先程女の人が泊まりませんでしたか?」
まだ若そうな女将は、すぐにええと頷いた。
「随分、あでやかな着物を着たお客様がいらっしゃいましたけどな。そりゃあもう、美人の方でしたよ?」
「へぇ……」
この町は、旅人が寄るようなところだから、宿に泊まる人も当然ほとんどが旅人だ。
ここの旅人は、普通は赤い着物はあまり着ない。汚れると目立つからだ。だいたいは、渋めの色か、秋揮のような青系統の着物を着るものである。
だから気になったのかもしれない。
「では、お部屋へご案内します」
女将は、秋揮が差し出した筆を受け取ると、先に立って歩き出した。秋揮もそれについていく。
どうやらここは随分と大きな宿屋のようだ。きっと、この町でも一番二番を争っているのだろう。さりげなく置かれた調度品の質の良さがそれを物語っている。
「ここがお部屋でございます」
不意に女将が一つの部屋の前で止まり、扉を静かに開けた。
「御用がありましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
女将は丁寧にお辞儀をすると、緑の着物の裾を翻して去っていった。
早速部屋に入った秋揮は、この部屋が随分と落ち着いた感じがあるなあと思った。
使い込まれてすっかり黒光りしている窓枠の木も、障子の桟も、全てが年代を感じさせるものばかりである。
「さて、やることもないし、一風呂浴びてこようかねえ」
秋揮はぼそっと呟くと、羽織を脱ぎ、腰に帯びていた刀を畳の上に置いた。ちなみに、この刀は、工芸品や宝飾品などの質が高いことで知られているこの越でも最高級のものであり、秋揮の宝である。
部屋に置いてあった浴衣とお風呂の道具を取ると、秋揮は静かに廊下へと出た。この宿屋には、温泉が出ていると聞いていたので、その方へと歩いていく。しばらく歩いていると、不意に自分の前に一人の女が出てきた。
「どうも」
「……どうも」
ふわりと微笑んだその顔は、二十代半ばの女が持つ艶っぽさを漂わせた美しい顔立ちである。
(間違いない。先程の女だ)
すでに浴衣に着替えていたので、あの赤い着物ではなかったが、全身から発するその艶やかさといい、黒髪といい、間違いなく先程の彼女のものだ。
「どちらからいらしたのですか?」
彼女はその黒い目を和ませながら聞いてくる。何だか、こういう動作を見ていると、過去にもこうして男を誘っていたのではないかと、むくむくと疑問が湧いてくる。
「……風越(かざごし)からです」
「まあ! 信越の首都の! 実は私はこれからそこへ向かおうと思ってましたの。ほら、信越って、宝飾品で有名でしょう? 私、一度見てみたかったのよ」
ちなみに信越とは、越の通称だ。秋揮は、少し眉をひそめた。
「……お一人でですか? あなたほどの美人なお方なら、男の方と一緒では?」
先程から疑問に思っていたことだ。不躾かと思ったが、口にしてみる。
越は、刀などの武器も優れたものが多いので、血気盛んなものがよく集まる。お世辞にも、その者達は、手が早くないとは言えない。
おまけに、国と国との境付近には、妖(あやかし)と言われる人ならざるものも現れるので、危険が多いのだ。
そんな中を女一人で旅とは、危険きわまりないものである。
「ふふ……心配は無用です」
彼女は意味ありげににこりと笑うと、では、と秋揮の横を通り過ぎていった。
(香の香りが……?)
花刺子模の女性は、香木をたくことが多いのだが、この彼女の通り過ぎた後の残り香は、何か不思議な感じがする。
(気のせいか……)
秋揮は気を取り直し、風呂場へと向かった。