久しぶりに温泉につかってさっぱりした秋揮は、先程の微妙な気分もどこへやら、まるで清々しい高原にいるような気分で部屋に戻ってきた。
 しばらく部屋で、買いだしが必要なものを確認する。
「そういえば、草履がもうすっかりボロボロだったんだっけなあ。さすがにそろそろ買い換えないとまずいかなあ」
 そんなことを呟いていると、部屋の外から仲居さんの声がして、障子がすっと開いた。
「夕餉をお持ちいたしました」
 今日秋揮が泊まった宿は、食事付きのところだったので、わざわざお食事処まで歩いていかなくて済む。とても楽である。
 それに毎日歩き通しの秋揮には、食事はひそかなお楽しみだったりする。
 仲居さんは、慣れた手つきでどんどんお皿を並べていく。ここ、隣の蔡(さいのくに)との国境付近には、四明山から流れる五十鈴川(いすずがわ)が流れているので、主菜はどうやら南東の魏海(ぎかい)から産卵の為に戻ってきた鮭の塩焼き、副菜には、旬の野菜を使ったおひたしに、ジャガイモや里芋を醤油やみりんや酒で辛く煮た煮物、きのこを入れた味噌汁だ。質素だが、素材の味を生かした味付けである。
「そういえば」
 秋揮はふと思いついて、礼をして下がろうとした仲居さんを引き止めた。桜色の淡い着物を着た二十代ぐらいの女性は不思議そうに首を傾げた。
「ここの界隈で、なにか――、人殺しのようなものは起きませんでしたか?」
「……ええ、一週間程前に、宿場町の入り口で、男の人が殺されているのが見つかったそうですよ」
 仲居さんは眉をひそめた。
「……男の人?」
「――ええ。何でも、体中の血が抜かれてしまっているとか。あ、すみません、これからお食事なのに」
「ああ、いいんです、俺が聞いたことですし」
「はあ……」
 仲居さんは何だか腑に落ちないような表情で下がっていった。
「まあ、死体の側でお食事、なんてこともあるしな」
 秋揮はぼそりと呟くと、主菜の鮭に箸を伸ばした。


 秋揮は今は浮遊者だが、目的があって旅をしている。
 最近、越に限らず、あちこちの国でこういった男の人だけが殺され、死体から血を抜き取られるという、不思議な殺人事件が起こっている。
 本当はちゃんとした仕事についているのだけども、秋揮の主人がこの犯人をを調査しろだとか無茶な命令をするので、こんな旅をしているのだ。
「まあ、旅も悪くないな」
 再びぼそりと呟いた秋揮の脳裏に、秋揮の主人の顔が浮かんだ。



 翌朝、秋揮は大事な刀を腰に刺し、素早く朝食を済ませると、旅を消費する物を買う為、外へぶらりと出た。
(一週間程前に、宿場町の入り口で……)
「――ちょっと行って見てみるか」
 秋揮は一週間程前に殺された人がいたという場所へ行く為に足を伸ばした。
 今日は珍しく朝寝坊してしまった為、朝と言っても陽は既に高い。自分が歩いている通りにも、旅支度をした人がたくさん行き交っている。
(あれ……)
 宿場町の入り口の方まで来て、秋揮はその場の光景に足を止めた。そこには、昨日会った、あの女の人がいたのだ。彼女は今日も赤い鮮やかな着物を着ている。
「どうも、奇遇ですね」
 秋揮はできるだけ気さくに感じるように声をかけた。女の人の肩が一瞬震えたような気がした。気のせいだろうか。
「あら、もう宿場町を出るのですか?」
「いやー、ちょっと買い物がてら、散歩に」
 女の人の視線が一瞬腰に刺してある刀にいったような気がした。女はまた、いつもの笑みを浮かべる。
「そうでしたの。私もちょっと散歩に来たのです。ところで、出立はいつ頃に?」
「そうですね……。まあ、明日の朝には出立しようかと思っています」
「随分お早いんですね。もっとゆっくりなさったらいいのに」
 女の人の目が艶っぽさを増す。それを見ると、秋揮は何だか落ち着かない気持ちになる。
(なんかやだなー、こういうの)
「まあ、仕事がらみですよね」
「仕事……? 傭兵とか……?」
 女の人は不思議そうに首を傾げる。おそらくは秋揮の刀を見て、傭兵と判断したのだろう。
 花刺子模では、旅人は主に商人が多い。故郷での珍しく売り物を旅先の商店や客に売り込んで収入を得ている。
 その分、傭兵は商人に比べると数が少ない。理由としては、各国の王はそれぞれ多くの兵士を抱えているし、多くのお金を持つ富豪や貴族達も、警護の為に私兵団を抱えているので、それほど傭兵は必要とされていないのだ。
(ま、今は名無し草だし、仕事を言っても始まらないか)
 秋揮は適当に笑ってごまかすことにした。
「では、私はまた別の用事がありますので……」
 女の人は、また笑みを浮かべ、会釈をすると、赤い着物の裾を翻して秋揮の前から去っていった。
 秋揮はその背中を眺め、一つため息をついて、宿場町の入り口を一通り見回す。
 入った時と何も変わらない、木の枠が唯一、その宿場町と外とを隔ているようにも見える。ここは国境ではないので、関所の番人などもいない。
 一通り見回して、ふと、秋揮は違和感を覚えた。
 なぜ、血痕がどこにもないのだろう。木の枠も念入りに調べてみるが、本当にどこにも見当たらない。
 血痕は、そんなにすぐに消えるものだろうか。とくに地面に染み込んだ場合は、雨でも降らない限り、どす黒い跡が残るものではないのだろうか。
 そんなことを考えながら、地面を見回すと、砂しか見当たらない中、ふと違和感を感じる物を見つけ、秋揮はおもわず屈み込んだ。
「何だ……? 赤い、糸……?」
 それは、ほんの三十センチ程の赤い糸だった。
 見た目はどこにでもありそうな糸だ。引っ張ってみると、とても丈夫である。先程の女の人が落としたのだろうか……? それとも……?
 秋揮はしばらくぼんやりと考えていたが、おもむろにその糸を懐にしまい込むと、立ち上がって袴の裾を簡単に掃った。
「んじゃ、商店街でもいきますかね」