第一章 戦う理由
1
今宵は新月、空も分厚い雲に覆われていて、明かりひとつ無い夜だった。
通りには時計も一回りしたからだろうか、人ひとり見当たらない、静寂が深まる夜。
昔ならではの石畳が並ぶその通りを少し外れた所に、ひとつの大きな屋敷が見えてくる。そこは、普通の稼ぎの人では中々得ることのできない大きさの、かなり立派な屋敷であった。屋敷の前には広々として、そして綺麗に整えられた深緑の庭が広がっている。
その屋敷では、未だ明かりが灯され、中では何かの宴かなにかが行われているようである。華奢な飾りが付いている窓枠のある窓からは緩やかな音楽、そして、何かの食べ物の匂いが漂っていた。
「警備の手筈はどうだ」
屋敷の一番広い、中央のホールでは、ひとりの中年の年頃と見られる紳士がホールを全て見渡せる階段の上の中フロアに重厚な椅子を置いて落ち着いていた。その紳士に、ひとりの未だ年若い青年が近付き、密かに耳打ちをする。
「万全に整えさせております」
「……そうか」
紳士は、青年の答えに満足したらしい。ひとつ頷くと、椅子から立ち上がり、これまた重厚な作りの中フロアの手すりに腕をかけ、そして二回、その肉厚の手を叩いた。
途端に、音楽が止み、ホールの隅にあるテーブルから、おもいおもいに料理をとって寛いでいた客達が、彼に注目する。
「さて、宴も酣。ここでひとつ、この宴一番の行事へと参りましょうか」
その言葉と共に、彼の真下にひとつの木箱が運ばれてくる。密やかな歓声が、周りから上がった。
「今回ご用意させて頂いた物は、どれも一級品のものですよ。ここでしか手に入らないものです。どうぞ、心行くまでご賞味くださいませ」
紳士が一礼。それに客は惜しみない拍手を送る。それを聞き、木箱の傍らにいた青年が木箱に近付き、木箱を開けようとした。
ブシュッ
何か、柔らかい肉のようなものを絶つ音が静けさに満ちたホールに響く。その一瞬後、ごとり、と木箱の上に青年の蓋を開けようとした手が、手首ごと切断されて落ちていった。
鮮血と、絶叫が噴き上げる。
「うわあああああっ!」
「キャアアアアアアッ!」
「何だ? 何だ?」
そして、下の階から湧き起こった、予想とは違う絶叫に中フロアにいた紳士は何が起こったのかと、下の階を覗こうと首を長く手すりの向こうに伸ばした。
その次の瞬間。ごとり。再び嫌な音がした。
その音に、手首を切断されてのたうち回っていた青年が、音の源――木箱をちらっと見る。
「う、わ、……ギャアアアアアアアアッ!」
青年の視線の先、木箱の上には、先程まで上の階にいた、紳士の生首がひとつ。
再び絶叫が湧き起こった広場に、音も無くひとつの深い、深い藍色の闇が降り立った。
よくよく見れたらの話だが――どうやらその闇は、人であるようだった。長く、黒い漆黒の髪が腰まで踊り、藍色の闇からは白い手首がのぞいている。
そして、白い、陶器の肌を思わせる顔。少し小さな唇、透き通った鼻。瞳は――何か、黒い帯のようなもので両方の瞳を隠していた。
そして、その手首に掴まれている、ひとつの細く、長い長剣。それはすっきりと長く、細く、そしてその刀身は禍々しいまでの、紅。すでに刃先は黒々と鮮血で覆われ、そして剣に乗り切らなかった分がぽつ、ぽつと床に垂れている。
客のひとりが、藍色の闇の姿を見、ひとつ悲鳴を混ぜながら叫んだ。
「何だ、お前はぁぁぁ! け、警備はどうしたぁぁぁぁ!」
「……」
闇は答えない。答えない代わりに、手首を一閃。次の瞬間にはまたひとつ、首が舞う。
常人の目には、闇が手首を翻しただけで首が飛ぶように見えていたようである。次々と、広場に舞う首。地には鮮血の泉。
そして、徐々にだが、その闇の髪の毛と思わしき部分が、漆黒から、その闇が持つ長剣と同じような禍々しい紅にその色彩を変えつつあった。
庭に目をやると――そこは、文字通りの地獄絵図だった。
庭の木々はどす黒い鮮血が飛び、地はたっぷりとその餌を吸ったようで、闇が通ったと思わしき場所は全てどす黒く染まっていた。
そして、所々の障害物、それは警備に当たっていたと思わしき人々の、身体。そして、手首、そして首。
それと同じ光景が、まさに今、目の前で繰り広げられようとしているようであった。
毛足の長いいかにも高級そうな絨毯は、その値の分だけたっぷりと血を吸い、綺麗な、黒い紅の絨毯に様変わりしていた。
その絨毯を彩る、数え切れないほどの人々。
むせかえるような、鉄の匂い。
それを目の当たりにしても、闇がその場から動くことはなく、そして、その髪をますます紅に染め上げ、そして、その、顔の表情を微塵も変えることは、なかった。
いつの間にか、その広場には静寂が訪れていた。薄い明かりを残し、全てが闇に包まれたその、空間。
ただ、ふたりを残して、誰一人動く事無く、ただただ、その場に佇んでいる。
「ひっ……ヒィィィィ!」
そして静かにその闇が歩みを最後に残された、ひとりの青年の元へと進める。青年は、怯え、口角からは泡を飛ばし、必死に叫びながらすっかり砕けた腰で、一歩一歩、後退していた。
「ど、どっかに行けえぇぇ! この、ぐ、軍の犬! ――血染めの女帝ぃぃっ!」
最後に闇がその名を告げられた時、僅かにその歩みを緩めた。
これ幸いと、青年が必死に後退りをする。
だが。
「……お前も軍の犬だろう」
その動くことの無い口から、やや低めの女性の声が滑り出し、そして――。
紅の軌跡が、静寂を切り裂いた。
ただ、ただ、守りたい。
それだけの為に、私は――。