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その日は、ルリ・アマギにとって鮮烈な夕陽の放つ光のような印象を残していた。
普通の目覚めも、いつもの朝食も全て、その日は特別な感じがしたように今は思う。
あの日の、あの時を決してルリは忘れる事がない、いや、忘れる事が出来ないと思っている。
例え、この身体が朽ちて再び違う世界に生を受けたとしても。
「めんどくさ……」
その日の午後、ひとりの漆黒の髪を腰まで真っ直ぐに下ろし、さらに黒の瞳を怪訝に輝かせたひとりの麗人――ルリは心底面倒くさそうな表情を隠そうともせずに、彼女が勤務するレイナン国の軍法会議に出席する為に軍の中央の施設にある第一会議所に向けて歩いていた。
彼女達が生活をする国、レイナン国は「聖地」とそこに住む人々によって呼ばれる大陸の中の一国だ。
聖地は、円状の大型の島がひとつによって構成されていて、その中でいくつかの国に分かれている。円形の中心に円を描くように一国、レスティン国、その国を取り囲むようにレイナン国、タープス国、アレイグル国の三国が在る。
島の周りはぐるっとこちらで言う海のような水に囲まれていて、その海の向こうには大陸があるという話もあるが、今まで、その大陸に行って帰ってきた猛者はいない為に本当の所は闇の中だ。
そして、その四国は今は仲はそれなりに良いが、腹の中ではいつ戦争を仕掛けるか分からない、俗に言う危うい均衡状態を保ちつつある。
ちなみにレイナン国は文芸に秀でた国とも言われていて、徴兵制度なども無い為、国を守る軍人の数は他国に比べ圧倒的な少なさを誇っている。それでも、他国がその国を潰せないのにはもちろん理由があった。
ルリは周りを自分よりも下の階級の兵士達が、彼女の紺の軍服の襟の部分に付けている称号に気付き、その場で立ち止まって敬礼をかわしていくのを半ば鬱陶しそうに返しながら、正面の長い石の階段を一歩一歩降りていった。
このレイナン国の暑さではちょっと動くだけも日頃から身体を動かしているルリでさえ、首筋にべっとりと嫌な汗が吹き出し、べっとりと髪が張り付いてくる。
そして、この階段の下には、ちょっとした広場のようなものが広がっていて、兵士達の憩いの場ともなっているので、多くの休憩をとっている兵士達が行きかう姿が見られる。
確かにその広場の向こうに第一会議所が鎮座しているとはいえ、この軍の施設の中でも一番の人混みを誇る場所を通ったことに彼女は非常に後悔をしていた。元々沢山の人が苦手なこともあるし、何よりもこの自分とは明らかに違う、温かい血の通った空気を纏った人達を改めてこの目にする事が苦痛でならなかったのだ。
二度とここは通るまい、と固く心に誓いながら階段を降りている途中で、ルリはふとひとつの異質な気配に気付いてその場に立ち止まった。
「……」
静かに振り返る。
――そこに存在していた空気に、思わず息を呑みそうになった。
そこには、ひとりの青年が立っていた。見た目はルリと同じように十五半ばの青年と少年の狭間に浮かんだような雰囲気を漂わせている。もしかしたら、彼もルリと同じようにとある事情から成長が止まってしまっているのかもしれないと素早く観察しながらもふと思った。
服こそは軍服の紺の色であったが、その髪、目も吸い込まれそうな程綺麗な漆黒であった。美麗、とはこのような事を言うのかもしれない。
そして何よりもルリの目を彼に止めさせたのは、その彼が纏う気配、空気であった。
自分と同質。いや、もしかするとそれ以上かもしれない。
明らかなる、漆黒の、闇の気配。そして、この暑いレイナン国の気候でさえ、吹き飛ばしてしまうような冷気。
彼に纏うその空気は、周りの人をも遠ざけてしまうような異質なものであったのだ。
今までに幾つもの修羅場を潜り抜けている為、滅多にルリは冷や汗などかかないが、それでも背中に一筋の冷たい汗が滴り落ちるのを感じた。
「……あんた、アマギ少佐?」
その整ったやや薄い色を放つ唇から、低めの美声が流れ出てきて、再度ルリは息を呑みそうになる。まるで、そこにいた青年が人形のようだったので、動いて喋るなんて考えもしなかったからだ。
「……そうだ」
彼女は何とかいつもの調子で言葉を返しながら、密かに襟の称号を盗み見る。階級は――中佐。
今までの会議にこんな空気を持つ人間なんていただろうか、という疑問が頭をよぎった。確かに、自分はあまりこの地位に執着などもしてないので、周りに座っている人間など気にも止めていないし、興味を持った人間以外幹部なぞ覚えてもいないが、それでもこんな異彩を放っている青年など一度見たら忘れられるだろうか。
大分西日を帯びてきた陽が照り、彼の漆黒をさらに照らす。彼の漆黒は光にさらされても尚、いやよりその闇が浮き出てくる気がする。
「なあ、あんただろ?」
「何がだ?」
青年は不敵に唇を釣り上げた。
「今日の新聞に載ってた連続殺人の犯人」
「……何の事だ?」
ルリは彼の言葉に驚きながらも内心で舌打ちをする。今日の新聞の一面に踊り出た事件、それはとある貴族の館で昨夜パーティが行われた時に、何者かによる狂気の殺人事件であった。その場にいたほぼ全ての人間が首を飛ばされ、完全に息の根を止めさせたれた事件。新聞は、精神が狂った人間の反抗ではないかと騒ぎ立て、報じている。
「あのパーティ、薬物が出てきたんだろ? この軍から漏れ出た、な」
「……さあ、な。私は知らん」
短く切り上げ、ルリは踵を返そうとした。
そうだ。あの事件には何者かによって、軍で厳しく管理されている薬物が裏に流れ、それを買い取った貴族がお披露目にと行ったパーティを潰す目的があった。
誰にも知られてはならない。その為には、関与した全員を殺害しなければならなかった。
だから、手を下した。――ルリにはただそれだけの事である。
しかし、どうしてこの青年がそれを知っているのだろう。この計画を知っているのは彼女とこの国の軍のトップ、元帥だけだ。薬物は警察が到着する前に回収したし、全員きちんと消して帰った。
ふと、階段を降りかけた足をルリは止めた。
「お前はそのパーティの場にでもいたのか?」
「いいや。あんなものには興味はねえよ」
脳裏に思いついた考えを青年は一蹴する。
微笑を浮かべたまま、青年は動かない。
「……?」
「お前には、裏の仕事は似合わねえよ」
一瞬、冷たい冷気が吹き抜ける。
「……どういう事だ」
「……、いや何でもねえ。引き止めちまって悪かったな」
何かを語りかけた青年は一瞬だけ真顔に戻ってその言葉を飲み込み、代わりに違う言葉を吐き出すと、そのまま彼女の横をすり抜けて階段を降りていった。
彼の纏っている冷気が、彼女の頬に触れた気がした。
「な、ちょ……!」
ルリがやや焦って発した言葉にも、青年はそれに気付かないようであった。
最早、彼だけ違う次元の違う世界の人間のように。
ただ、真っ直ぐ階段を降りていく。海を割って進むかのように、周りに満ちている暖かい空気を割って、一歩一歩音も無く。
彼女の髪を風が攫っていくのを感じながら、しばらくルリはその場に立ちつくしていた。