7


 悠々とその冷たい雰囲気を纏いながら入室してきたミコトも、そこにルリがいるとは思っていなかったらしい。まあ当たり前なのだが。二人とも、しばらくぽかりと口を開いてお互いの顔を眺めていた。
「……」
 その普段では見られない光景に、執務室で働いていたフレイヤとフレイの部下もそっと成り行きを眺めているようで、誰も言葉を発しない不思議な空間が出来上がっている。
 ミコトは先程のように意地悪い笑みを浮かべる事はせず、ルリから視線を逸らすと淡々と無表情のまま、フレイに持っていた書類を手渡そうとしていた。
「あのこれ、元帥から渡してくれと預かってきた書類です。たまたま俺が近くにいたもので」
「ああ、中佐。わざわざすみません」
「いえいえ」
 お互いに微笑を交し合いながら書類を渡している。
 それは一見すると、どうとない、日常の光景のようであった。一般の、武道の心得が無い者から見れば、の話である。
 だがしかし、それ以外の、云わばルリのようなものから見る光景は、それとはかけ離れているものであった。
 氷のような冷気が、主にミコトから発せられている。
 それを淡々と受け流すフレイも、中々に鋭い、矢のような殺気を持っている。
 じんわりと身体に染み入る、冷気。
 寒い。
 ルリが無意識に両腕をさすった時、その動きをきっかけとして、凍りついたような執務室にぴしりとヒビが入ったようであった。ひゅるりと風がなびき、二人が元の微笑でお互いに軽く目礼する。
「では、俺はこれで」
「ああ、はい」
 ミコトはにこりと笑み、そのまま踵を返した。
 ばたりと静かな音と共に、廊下との空間が仕切られた。それを合図に、フレイヤがふうと息を吐いていた。眉を顰めて、金色につやつやと輝きを放つ髪の毛をかき上げる。
「はあ、やっぱり素晴らしい切れ者である事には間違いないわね」
「そうかな? 僕には、あれが、彼の日常の気もするけど」
 フレイは相変わらず微笑を湛えたまま、書類を自分の机に置いていた。その様子がフレイヤには納得いかなかったらしく、あからさまに気分を害した表情を浮かべた。
「何その態度! どうしてあの人は、初対面なのにああいう殺気放ってるのにフレイはニコニコしちゃって! 何とも思わないの?」
 フレイはそうカッカと熱を上げる相方をまあまあと宥めながら、こう言う。
「だって僕達だって、初めての時はあのくらいピリピリしてたと思うよ? あのくらい気を張ってないと、嘗められちゃうでしょ、色々と」
「まあ、そうだけど……」
「多分、彼はああやって、自分の『味方』と敵を区別しているんじゃないのかな?」
「……」
 フレイヤは未だ憤慨した表情ながらも、どうにか納得したようで、無言のまま仕事を再開していた。少し乱雑に書類を整えている。
 確かに。ルリは自分が少佐に昇格したばかりの頃をふと脳裏に甦らせていた。
 あの頃は、自分もあちこちで遭遇する粘着質ないびりに、常に気を張って対抗していたものだ。ルリは少佐への昇格であったからまだまともであったと言えるだろう。彼女にはイズンやフレイヤ、フレイと言った年代の近い友人もいる。
 だが、彼はどうだろう。少佐と中佐では、ここレイナンでは天と地ほどの差があるし、中佐には、同じ年代の者はいない。それは、じっくり考えてみると、かなりの厳しい条件下におかれているのだと気づく。
 それを思うと、先程すぐさま元帥の申請を拒否した事に、少しばかりの罪悪感が浮かんでいた。
 ――少し悪いことをしてしまっただろうか。そう思って、すぐさまその思考を打ち消した。
 いや、そんな事はない。そもそもあいつはあんな言いがかりをつけてきたんだから、こっちもおあいこだ。気にすることはない。
 もうそのように考えている時点で、十分気にしているのだが、もちろん考え込んでいるルリがそれに気づく事は無い。
 そうやって立ち尽くしたまま、もやもやしていると、フレイがにこにこと微笑みながら近づいてきた。
「ルリ? どうしたんだい? そんな場所に立ったまま」
 座れば良いのに。その言葉にルリは我に返った。
「あ、いや、何でもないよ。お邪魔したね。私はそろそろ失礼するよ」
 早口でそう言うと、くるりと踵を返した。その背中に、唐突に言葉を投げかけられる。
「そういえば、何であの人の事を知ろうとしたんだい? ルリにしては珍しい事だね」
 ぴたりと、足が止まりそうになった。辛うじて理性でそれを抑える。
 何て答えれば良いだろう。そう考えたのは、一瞬だった。
「……」
 ルリは横目ですっとフレイを見ると、鮮やかに、唇に紅が差されるかのように、微笑んだ。
 彼女はそのまま悠々と執務室を過ぎ、扉を押し開けて廊下へと歩み出ていった。

 扉が閉まると、思わずその扉に背をつける。そして、大きく溜め息。
 危なかった。というかあの反応で大丈夫だったのだろうか。自分は口下手だと常々理解していたし、下手に口を滑らせると大変な事になる。まさか自分の闇の仕事の事を話す訳にもいかないだろう。
 フレイは頭が切れるからな。今度から気を付ける事にしよう。
「――……う、わっ……」
 ルリは再び溜め息をついて、ふと右からの視線を感じ、顔を向けて。そのまま叫びだしそうになっていた。
 おそらく相手が人差し指を口に当てて注意しない限り、叫んでいたに違いない。
 そこには、壁伝いに背中を預けて、ミコトがちょこんと座っていた。ルリが出てくるのを待ってたのだろうか。ルリが何とか叫ぶのを止めたところで、お尻の埃を軽く払って立ち上がる。
「何、をしてるんだ。こんな……」
 ようやくまともになりかけた言葉を口にしたルリに、ミコトは明らかに呆れたような視線を投げかけてきた。
 いつもは誰のどんな表情をも、無言で流せるルリであるのだが、ミコトに対しては、一枚上手というか、第一印象が尾を引いているのか、それをするのがとても難しい。口を開いたり閉じたりして、何とか余計な言葉を出すのを止める。
「……ここじゃ、目立ちすぎるか……。ちょっと俺について来いよ」
 ミコトは辺りを見回してひとつため息をつくと、そう言って先に立って歩き出した。
「ちょ、ちょっと……!」
 有無を言わさぬ調子の言葉に、ルリは一応抗議の言葉を投げかけたが、勿論通じないミコトの様子を見て、ひとつため息をつくと、足早に追いかけるのであった。



 ミコトはこの情報を主に扱う兵舎の中を迷う事無く進んでいた。幾つか階段を上がり、こじんまりとした鉄の扉を開く。
 その先は、屋上のようだった。この兵舎は四角い建物であるので、屋上も平らに造成されている。
 外は完全に陽が落ちているので、明かりの少ないその場はほとんど暗闇に覆われていた。 ミコトがポケットの中からマッチを取り出し、近くに備え付けられているランプに火を点ける。
 ぼう、と辺りが僅かながらも仄かな明かりに照らし出された。
 彼は辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、さて、と呟きながら、壁に寄りかかった。
「お前、あんな所で何してたんだ? あそこは情報専門の部署だろ? お前には関係ないだろう」
 涼しい表情でいきなり痛いところをつかれ、思わずルリはうっと言葉に詰まっていた。
 いや、よく考えるんだ、自分。あの二人は私の友人なんだし。混乱し掛けている頭で必死に思考を巡らせる。
「いや、その、あの二人に個人的に用事があったんだ」
「ふーん、……俺の情報を見ることが用事なんだあ?」
「!」
 さらにずばりと言われ、ルリは沈黙してしまう。そしてその沈黙は、図らずも肯定の意をミコトに伝えてしまっていた。
 口をパクパクと動かし、何とか慣れない弁解の言葉を考えているルリの横で、冷徹な目をして彼女を睨み付けていたミコトの表情が一気に緩んだ。
「ぷっ! あはははははっ!」
 よほど彼のツボに入ったらしい。ミコトはしばし瞳に涙を滲ませる程、笑った後、あー面白いとぼやきながら片手で自分の目尻を拭った。
「な、何だよ……」
「お前って、嘘つくの下手なんだな。あー面白い。ちょっとカマかけただけでボロ出しやがって。そんなんでよく『闇』の一員としてやっていけるなあ」
 うろたえる彼女の表情が面白いらしく、未だにやにやと笑いを滲ませながら放った言葉に、ルリはぽかりと口を開いていた。
「な、な、な……」
 続く言葉が見つからない。つまり先程までの彼の言葉は、単なる彼の思いつきで言っていた言葉だということなのだ。実際にルリが今まで持っていた彼の資料を見ていた訳ではない。そもそも彼が二人の仕事部屋に入ってきた時点では、ルリは手に何も持っていなかった筈である。
 ようやくその事に気づいたルリは、頬を紅潮させた。むすりとしたまま何かを言いかけるが、何を言ってもこいつには負けると思いそのままむっつりと黙り込む。
「ま、これから共闘する訳だしな。自分の癪に障らない程度の個人情報は共有しても問題ないんじゃねえか?」
「……」
 ルリは肩を竦めて話すミコトを見ながら、つい先程まであの二人に聞かされていた話を思い出していた。
 今の彼には、冷たいものも、鋭い視線も見受けられない。ただ童顔で常人より少し背が低めの、ひとりの青年だ。
 ――今の彼からはどうしても、あの時の死地とは重なり合わない。
 だがさすがに、その事をミコトに聞くのは憚られる。
「――何だ? やっぱり秘密主義かい?」
 自分の目をその瞳に覗き込まれて、ルリはハッと我に返った。

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