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 とろり、とどこか濃い液体が、透明なころんとした形のグラスに注がれていった。それをどこか醒めた、しかしながらぼんやりとした目つきで眺めている。
 その赤い、濃い液体が注ぎ終わると、そのグラスを眺めて、ミコトはため息をついていた。
 同じテーブルの上には、くしゃくしゃになった一枚の紙。
 退役届。
 もはやもう二度とは出せないであろう、それを目にしてミコトは自嘲気味に笑った。
あの戦いからずっと、ミコトは何枚も何枚も、同じ文字が書かれた紙切れを出していた。何枚も何枚も。
 その度に、握りつぶされるその紙切れ。
 ついには、こんな興醒めた階級まで貰ってしまっている自分がいる。
 ミコトはそのふわりと漂うアルコールの匂いを鼻に含みながら、そっとその液体を口に運んだ。
 こんな年で飲んだら寿命が縮まる、とはよく言われるものだが、寿命がそんなもので縮まるのだったらありがたいものだ。こんな自分が、長生きなんて出来るはずも無いだろうに。
「くそ」
 小さく呟いた。
 馬鹿みたいな事を聞いてしまった。ミコトの頭の片隅には、その思考が延々と繰り返されているのだ。
 くそ、くそ、くそ。

 あの時の「事件」は失敗が許されないものだった。だから、もしルリが失敗した時の為に、ミコトは別命を受けてその場にいた。彼女がその場を訪れる時間よりも早く、ミコトはこそりと茂みに身を隠していたのだ。
 ミコトは闇と同化するのは呼吸をするように自然な事だ。殺気を放つよりも。
 そしてそっと身を隠してしばしの時が過ぎて。
 唐突に、何の前触れも無く。あの、濃紺の彼女が。庭へと踊り出ていた。
 今まで幾つかの戦争に駆り出されてきたミコトにとって、戦いとは醜さと力のぶつかり合いである事を学んでいた。
 どれだけ速く動けるか。どれだけ速く首を取れるか。どれだけ速く、戦を終わらせられるか。
 それは装飾の、美しさが踏み入る余地の無い、命のぶつかり合い。
 だから、その彼女の戦いに、思わず目を見開いていた。

 あまりにも彼女の戦いが、美しかったから。

 その時初めて、彼女が「血染めの女帝」と二つ名を付けられ、そして畏怖されているのかが分かった、気がしていた。
 女帝の如く凛としたその姿。目を隠してでさえ、浮かび上がるその眼光の強さ。
 自分とは正反対の存在だった。「死神」の自分とは。それがたまらなく情けなく。
 そしてその美しさを持つ彼女に、羨望の想いを抱いていた。
 だから、今日面白半分に近づいてみたのだが……。
 そこまで考えて、ミコトは小さく笑みを漏らした。
 少佐の地位にいる癖に、闇の一員である癖に、ルリは生真面目すぎるほど真面目な人間であるとは、思いもしなかった。
 そんな性格の人に会ったのは久しぶりだったので、ついつい調子にのってからかい過ぎた嫌いもあるが――。まあ、そんな事は向こうも大して気にしてないだろう。
 ミコトにとって、人を気に入る、という感情も久しく感じてなかったものだったので、それも新鮮だった。
 だが、その生真面目過ぎる性格は、おそらく闇の仕事には向いていないだろう。彼はそうも考え、静かに目を閉じる。
 せめて、自分が少しでも負担を減らせる事が出来れば。
 氷が溶けて、小さく音を立てていた。



 ルリはぼうと窓の外に小さく佇む月の姿を映し出していた。
 月でさえも、こんなに地上を明るく照らし出せるのに、どこも照らされる事の無い場所などあるのだろうか。そんな事を考え、そして今日出会ったひとりの男の姿を脳裏に浮かべた。
 彼は闇だった。その、月さえも照らす事の出来ない、真の闇を持っていたように思う。
それでも、その闇がどこか気になるのは、同じく闇を有する者としての性だろうか。そう思い、そして苦笑した。
 ミコトに持つ闇は、垣間見た自分でさえも、深い、深い、深遠がないくらいに深いものであったから。
 彼は一体どんな気持ちで、今日の会議に臨んでいたのだろう。

 一体どうして、あの惨劇を引き起こしたのだろう。

 疑問は延々と尽きずに浮かぶ。こんな事をイズンにでも話したら、ついにルリにもそんな事を考える事が出来るようになったか、とおちょくられそうだ。勿論これは、そんな感情では無いが。
 それでも久々に、こんなに他人の事で色々と考えている事が面白かった。その事に、口の端を釣り上げる。
 そして月をもう一度見上げ、今度は彼と一緒に請け負ったもうひとつの仕事について考えた。
 ひそかに国を転覆させようと企むレジスタンス。
 確かにルリでさえも、国王が完璧な人間で、好ましい人間であるとは到底考え難い。
 それでも、人は平穏に暮らす事を望み、変化を遂げる時の、その大混乱を嫌うからこそ、皆が王についていくのだろう、と思う。
 だから、人が変化を望む時。
 それはおそらく、生きることであり、死ぬことなのであろう。
「もう明日も早いから、寝るか……」
 明日は通常の業務が待ち構えている。それはやはり軍の中で生きる彼女にとっては、体力勝負でもあるだろう。
 今日は体力以外の面の事柄諸々のせいで、かなりの疲労を感じていた。人は、精神と体力の両方を上手く使わないと、疲れを感じずには生きていけないのだとも思う。
 ルリはゆったりとした足取りで、頑丈ながっしりとした棚から、ひとつの瓶を取り出した。中では琥珀色の液体が、たぷん、と揺れている。
 勿論ルリは軍の寮に暮らしているから、本当は寮内での飲酒は禁止されているのだが、幸いな事に彼女は軍の中ではちょっとした地位にあるので、一人部屋を使えるので、酒を飲もうが見つかる事は無い。
 大きめな、すりガラスで出来たグラスに、ゆっくりと瓶を傾けてそれを注ぎ込んだ。とぷん、とぷんという音と共に、グラスにその液体が注がれていく。
 思わず陶酔してしまいそうな色だ。
 ルリは、もう今日で一週間分ぐらいの笑みを使い切った、と思う程に、再び微笑を浮かべた。
 ゆっくりとグラスを持ち上げてその底を覗き込んだ先で、月がゆらゆらと揺らめいている。
 今日、この月の下で、何人が自分と同じように酒を飲むのだろう。
 今日、この月の下で、何人がかつての自分と同じように、その手を血に染め上げるのだろう。
 そして、今日、この月の下で。
 幾人が。
 あの感情を。
 心に焼き付けるのだろう。
 ゆらり、と部屋の空気が揺らめいていくような錯覚に陥った。
 夜は、長い。

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