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 辺りは、闇のようだった。どんなに手を伸ばしてみても、暗い闇。闇。
 黒。
 ルリはそっと辺りを見回し、そしてそろりと一歩踏み出そうとしていた。
 ぽおん。ぽおん。
 初めて聞く筈なのに、どこかで聞いたような音がルリの耳に届く。
 彼女はゆるりとその音の方向へと首を巡らせていた。
 そこには。光さえもない闇の筈なのに。冴え冴えと。
 丸い鞠が、ぽおんと。


「アマギ少佐ッ! 何寝てるんですか!」
 彼女と同じ部屋で仕事をしている部下に、容赦なく肩を叩かれてルリは飛び起きた。
 ぜい、ぜいと暫く、肩で息をする。
 そこは、ルリの他幾人かの幹部とその部下達が共に仕事をしている執務室であった。彼女の同僚達が、冷ややかな目つきでルリを見やっているのに気付く。ちなみにこの部屋には、友人であり同僚でもあるイズンもいるが、イズンも他の同僚と同じように、ルリに軽蔑しきった眼差しを送っていた。
「……――すまない? 今、何時だ?」
 ぼりぼりと頭をかきながら、ルリは資料を渡してきた部下に尋ねた。ルリよりも律儀な性格の彼は、冷ややかな目のまま、答える。
「もうすぐ十一時ですよ」
「そうか」
 ルリはひとつ頷き、机に散らばる資料に、渡された資料を重ねた。その資料には、ルリが率いる中隊にいる兵士達の名前などが記されている。
 ルリの普段の主な仕事は、戦争時には中隊を率いて前線に向かい、そうでない時は、中隊の兵士達の訓練を監督したり、警護の任務を取り仕切ったりする事である。時たま、大隊などの規模の大きな軍隊を率いることもある。
 直に部下の兵士達と触れ合う仕事でもあるので、彼らは先程のように、彼らがルリを敬う事は無く、気さくに接してくる。
 まあそれは言うならば、ルリにあまり威厳と言うものが備わっていない、という事でもあるのだが。
「確か午後からは、訓練場での訓練だったよな……」
 独り言のつもりで呟いたルリだが、隣から刺々しい声が返ってきた。
「そうです。だからさっさとその仕事を終わらせてください」
 その言葉に、ルリはひとり肩を小さく竦めて、再びペンを手に取った。
 上司なのにこう毎回ズケズケと物事を言われる彼女であったが、それが長年、共に仕事をしているからこそ出来た、信頼関係である事を知っている。
 それが少しだけ、くすぐったかった。


 風がゆるりと、吹いていく。
 赤茶色の、土が向き出しのこの訓練場にルリはいた。太陽が高い真昼。このレイナンでは、死ぬほど、という表現が似合う程、暑い。暑い。
 ルリは早くも額に噴き出し始めた汗を一回拭う。その隣では、彼女の中隊に属する兵士達が、口々に文句を言いながら、太陽を見上げたり手に持つ武器を見たりしている。
 何もこんな昼間から訓練をする事も無いだろうと思う時もあるが、それでも彼女は、この時間に訓練をする理由を知っているから文句は言えない。
 簡単に言えば、いかにこの暑さをレイナンで戦う時の武器にするか、が理由である。レイナンは聖地の中でも一番の暑さだ。だからそれを逆手に取れ、と言うのが、司令官殿のお言葉だったりする。その言葉を脳内で反芻し、ルリはひとつため息をついた。
「それじゃ、訓練始めるぞ!」
 ため息の後、腹からの声を出す。彼女の少し低くなった声が、訓練場に響き渡った。
 
 今日の訓練は、これから数日後に廻って来る、国王の視察での護衛の為のものだ。
 初めは軽く運動として、幾つかの訓練をこなして、それから実戦形式を取るつもりでいる。
 そんな訳で、初めの訓練は身体慣らしの為の動きから始まった。
 軍が主に教えている型は、レイナンの国ではどこの道場でも最初に教える、ごくごく一般的なものだ。
 そして、大体の幹部達は、もともと小さい頃から独自の型を身につけているので、軍に入って初めて剣などを習う者達は、その幹部の型を教わってレベルアップする事が基本だ。
 剣を地面に置き、まずは基本とされる、腕と足を気が流れるように動かす動作を数十回。ルリの一声によって、皆が揃ってその動きを始めていた。
 今日、この場にいるのは、彼女が主に率いる中隊の中で精鋭のおよそ三十人程。ルリが掛け声を掛けてわざわざ合わせなくても、静寂の中、皆がぴたりと息を揃えて同じ動作を取っているのは壮観でもあった。
 皆が静寂の中、いつもの回数に達し、それぞれが大きく息を吐きながら地面に置いた剣を拾う。
「よし、じゃあ次はどうするかな……。じゃあ、くじ引きで、護衛班と襲撃班に分けて訓練しようか」
 ルリが拾った剣の柄についた土を軽く払いながら、そう提案する。ちなみに今日は木刀だ。さすがに訓練で大怪我をして、本番に差し障りがあると困るからである。
 ルリの言葉に、目の前にいた部下のひとりが、むっつりとした表情で反論を挟んだ。
「それじゃあ、アマギ少佐がいる班が勝っちまうじゃないっすか。何か不公平な気もしますよ」
「そうか? 別に私は『あの力』を使う気はさらさらないんだが、な。まあ一回やってみて、どうにもならないようだったら、私が独りで襲撃班を担当しようか」
 ルリの首を傾げながらの言葉に、部下もしぶしぶながら納得したようである。
 ルリはそれを見届けると、早速、ポケットに突っ込んでいたマッチ箱を引っ張り出した。
「俺のも使ってください」
「ああ、助かる」
 それを見て、幾人かもルリの手にマッチ箱を載せる。
 ルリは微笑んで、中のマッチ棒を人数分だけ取り出した。そしてそれを丁度半分に、頭の部分をぽきりと折る。全部をもう一度混ぜると、ふたつのマッチ箱にそれを突っ込んでいった。
「さて、じゃあ先が折れているのが襲撃班、折れていないのが護衛班だな。上手く分かれたら、ひとまず作戦会議だ」
 ルリはそう告げると、先陣を切ってマッチ箱から一本引き抜いた。
 それを合図に、皆が次々とマッチ棒を引き抜いていく。
「さて、私と同じ護衛班は誰だい?」
 ルリは赤い先っぽが残っているマッチ棒を掲げて、にやりと笑んでいた。



 相変わらず暑い日差しはそのままに続いている。
 その中で、ルリはじっと壁際に立ち、全ての気配を伺っていた。
 今回の訓練では、ルリは入り口から逸れた、裏から侵入されそうなルートの近くに陣取っていた。おそらく、一番もし侵入されるとしたら、この場所からでは無いだろうか。
 作戦内容を少しだけ反芻していると、早速ぴりりとした気配をうなじに感じた。ルリは木刀を手に強く持ち、さっと足を蹴り上げる。
 それと同時に、斜め上の木から、ひとりザッと足音を立てて降りてきた。その顔を見て、にやりとする。
 その少し長めの髪に切れ長の目。ロイだ。彼はルリが率いる中隊でも二番三番の実力を持つ。つまり、向こうも丁度この場所に精鋭を送り込んできた、という事だ。
「くそっ、やっぱり少佐がここにいたかっ!」
 彼は憎々しげに、でもどこか楽しそうな声音でそう言うと、思い切り木刀を振り下ろしてきた。
 身体の急所に木刀が当たる、もしくは相手の攻撃を掻い潜って逃げる事が出来れば、襲撃班の勝ちだ。護衛班はそれを阻止しなければならない。
 ルリは真一文字に剣を翳してそれを受け止めた。鈍い、木の音が辺りに響く。彼はそのまま力で押し込もうとしてくるのを気を横に流して避けた。
 そのまま剣を翻して斜め右上から叩き込む。
 再びがつん、という鈍い音が響いて二人の動きが止まった。
 そのまましばし、どちらも一言も発さず、ただ睨み合いの時間が続く。
 膨れ上がった殺気は、今は清流のようにすっと流れ。
 じわり、と背に汗が滲んだ。
 しばらくの後、彼の額から汗が地面に滴り落ちていく。

 ぽつん。

 その音が二人に聞こえたかどうかは定かでは無いが、二人は同時に後方へと飛び退いていった。
 

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