一枚目に描かれていたのは、女性の全身像だった。ワンピースを纏った女性の姿。短めの髪。座って本を読む仕草がデッサンされている。
「へぇ……」
二人の口から、同時にそんな言葉が漏れていた。秋の画力はかなりのものだった。ただ絵を描くだけではないものを持っているような気がする。例えば、この女性の絵には、この女性の性格が現れているような気がしたのだ。
奔放で無邪気な、子猫のような性格。
美幸はぺらりとページを捲った。そこにもまた、女性が描かれている。同じ服を着ている所から、おそらく違うポーズを描いたのだろう。
さらにページを捲る。そこにも、また、女性が描かれている。絵の雰囲気からして、おそらく同じ女性だ。
そうして何気なしにページを捲っていって、半分も過ぎた所で、自然とページを捲る手が止まっていた。
顔を上げると、茜と視線が合う。
そこには、戸惑いと、微かな怯え。おそらく美幸の顔にも、同じ感情が浮かんでいる筈だと思った。
温い風が顔に当たる。
もう一度気を取り直してクロッキー帳を見下ろした。
薄いその紙に描かれているのは、女性だった。無邪気で奔放な女性が、大きめのカップを持っている絵。
もう二十枚にもなるだろうか。その女性しか描かれていないのだ。
日常の、ふとした場面を切り取ったような一枚一枚の絵。
執拗なまでに、その女性を追っているような気がする。この感覚は、気のせいなのだろうか。美幸はまた、クロッキー帳のページを捲っていく。
眠っている姿。笑っている姿。車を運転している姿。料理をしている姿。ソファに座って、テレビを見ている姿。
捲っても捲っても、そこに溢れているのはひとりの女性の日常だった。
何枚も描かれるその異常なまでの世界に、飲み込まれそうになる感覚。
「――へぇ」
不意に、秋の声が聞こえてきて、美幸は我に返った。クロッキー帳から顔を上げる。
秋は、美幸のクロッキー帳に視線を落としながら、ぽつりと呟いた。
「小林さんって、すごく落ち着いているから、静かな印象の絵を描くのかな、って思った」
「――……」
その言葉に、美幸よりも、茜が敏感に反応した。ぴくりと肩を震わせる。どうやら茜も気がついたようだ。
出来れば言葉を続けて欲しくは無かった。
だが秋は、残酷なほどに冷静に、言葉を続けるのだ。
「すごく明るい絵を描くんだね」
そうして彼もまた、ぺらりとページを捲る。
花瓶に生けてある薔薇の花が、からんと揺れた。
がたがた、と何かを動かすような音がして、どこか気まずい空間が霧が晴れるように、消えていく。
三人は美術準備室へ続く扉へと目をやる。しばらく向こうの部屋では何かを動かすような音がして、そしてその扉が開かれた。
「お、あなたが噂の転校生?」
話は聞いてるよ、と言いながら、新城先生は美術室へと入って来た。手には文面が印刷されたプリントを持っている。
「今日は三人だけ?」
「どうでしょう。まだ来るかもしれませんし」
「そうだね……まあ、いいや」
先生は茜の言葉にひとつ頷くと、プリントを三人に配る。
「今年ももう、そんな季節なのね……」
美幸は配られたプリントを見下ろしながら、ぽつりと呟いた。そのプリントには、展覧会についての事柄が記されていた。
「展覧会?」
秋が首を傾げると、茜へとプリントを渡していた先生が、そう、とひとつ頷く。
「毎年、駅前のショッピングモールのギャラリーを貸してもらってね、展覧会をするんだよね」
「そう。年に一度の、美術部の祭典なのよ」
茜が少しだけはしゃいだ声音を上げる。
「どう? まだ展覧会までは一枚ぐらいなら描ける時間があると思うんだけど、良かったら参加してみない?」
あなたが美術部に入るのならだけどね、と先生は肩を竦めた。秋はじっと紙面を見下ろして、食い入るようにその文字を追っているようだった。
どこか遠くで、女子が楽しそうな声を上げているのが聞こえる。それはこの、学校からどこか断絶された世界の外側で、まるで異世界のように響いた。
その声に反応してか、秋はゆっくりと顔を上げる。そして、真っ直ぐに先生へと視線を向けた。
「――参加、したいです。参加させてください」
「おお、やる気になったか」
先生は部員が増えるとあって、嬉しそうな表情を浮かべている。
その表情を見て、どこか重たい石が乗ったような感覚を美幸は覚えていた。
秋は先生を見つめたまま、にこりと笑みを浮かべていた。
「描きたい絵が浮かんだんです」
「へえ、早速?」
先生は、興味深げに秋の顔を覗きこむ。ちらり、と視線を茜に向けると、茜も、今の美幸の気持ちと同じであろう眼差しを返してきた。
そして前を向くと、秋のどこか飄々とした、それでいてどこまでも透徹した眼差しとぶつかる。
「――小林さんと、海道さんをモデルにした絵を描きたくて」
彼のその声音に、肩が大きく、震えそうになった。
「――へえ、二人を?」
確かにこの二人は、描きがいのある二人だよな、と先生はやたら感心していた。そうしながら、美幸と茜を交互に見つめる。
「ええ。俺、二人に初めて会ったときから、何かを感じていて。二人が許してくれるのならば、是非二人を描いてみたいんです」
その時、はっきりと美幸の背筋が凍りついたのを覚えている。少しずつ感じていた何かが、その時、はっきりしたのだ。
秋は、私達の持つ秘密に気がついている。
何故か、その時、それがはっきりと分かった。秋の、穏やかな視線を受けながら、美幸はその時、どうしようもなくその部屋を飛び出したくなったのだ。
茜はこの秘密に気がついたのだろうか。美幸は不自然にならないように茜へと視線を向けた。
「ええ? 私達をモデルにするの?」
照れるな、と茜は嬉しそうな笑顔を見せていた。不自然なまでの自然さで。
きっと茜も気がついているのだ、美幸はその表情を見て、ただそう感じた。
そして、今の二人にはどうしようも出来ないことも。
そうして三人は、奇妙に濃密な時間を経て、それぞれの絵の制作へと取り掛かった。秋は先生に呼ばれて準備室へと姿を消し、美幸と茜は、現在制作している絵に取り掛かる。
そうして二人はようやく、いつもの時間を取り戻したのだった。
道路に視線を落とすと、薄っすらと自分にくっついてくる影が見える。美幸と茜以外、誰もいる事の無い歩道。道路には様々な種類の車がひっきりなしに通り過ぎて、彼女達のスカートを揺らしていく。
鼻を通り過ぎるのは、僅かに排気ガスの混ざった、初夏の匂いだ。
「……とんでもない人が来ちゃったね」
「うん……」
茜の言葉に、美幸は小さく頷く。前を向く茜の横顔には、はっきりと、困ったような、泣いているような、そんな表情が浮かんでいた。
僅かに視線を上げれば、空が見える。強烈な赤い色と、青い色が交じり合った、反対側の空とは正反対の空。
穏やかな薄い水色と、じわじわとにじり寄ってくる闇色のコントラスト。まるでその透明さは、秋に似ていると思った。
だが穏やかな色が、ただそれだけでは無い事を二人は知っている。
美幸と茜の世界に、乱暴なまでに溶け込んで来た秋は、あくまで穏やかな表情だったのだ。
そう、彼は穏やかな表情で、私達の秘密に乗り込んでこようとしている。
かつん、と爪先に小石がぶつかって、美幸は下を向いた。整然と整えられた歩道に乗る、一粒の石。
「ねぇ……、私、失敗したかな」
黙々と歩いていた茜が、速度を緩めた。美幸もそれに付き合って、速度を落とす。美幸は茜を安心させるように小さく笑ってみせた。
「茜が失敗してるのなら、私も失敗したかな」
「……いつ気がついた?」
「昼休み、図書館で」
「ああ……」
茜は納得したように、ひとつ頷いた。あの独特の眼差しを思い出し、心がぶるりと揺れる。
二人は、大通りに差し掛かっていた。灰色の交差点。大型のトラックが、目の前を横切っていく。二人の歩みを止めるのは赤信号。
青になるのを待ちながら、ぼんやりと二人は前を見ている。
「ねえ、バレると思う?」
茜がくるりと振り向いて言った。振り向いた拍子に髪が舞い、それが緋の光に染まっている。
「どうだろうね」
「……うん」
どこか間の抜けた音が響き、信号が青に変わる。二人は白と黒の横断歩道を渡り、そしてひとつ道に入る。
二人を平凡な住宅が取り囲む。まだらに光る、家の明かり。二人はどこまでもその間を進み、そして足を止めた。
いつものように、同じタイミングで二人はお互いを振り返る。
「じゃ、また明日ね、『美幸』」
「ばいばい、『茜』」
そうして二人は、お互いの住む、本来の名前の家へと戻って行った。