美幸は、先に歩いていく秋を見ながら、意識して茜と歩調を揃えた。ぷしゅ、と隣でプルタブを開ける音がする。
「……なんか、ほんとっぽいね」
「うん」
 茜は缶を傾けて、口にジュースを流し込んだ。彼女の喉が動くのを見ながら、美幸はぼんやりと思いを馳せる。
 あの時の、秋の豹変した姿。確かに外見が変わった訳では無いが、それでもまるで別人のようだった。
 目の前に迫ってくる校舎を見上げる。白い壁に、強い光が照り返してきて眩しかったが、それでも美幸はそれを見つめ続けた。
 どれだけ、この校舎の中に、本当の自分をさらけ出している人達がいるのだろう。教室に行けば、皆それぞれの外見を見て、それぞれの色を割り振っていく。そして本人も割り振られた色に満足して、――教室の風景の一部となるのだ。
 そこに、どれだけ自分の意志は混ざっているのだろう。
「難しいね」
 横を歩く茜が、美幸の考えを見透かしたかのようにぽつりと呟いた。その時の声音は「美幸」のもので、美幸は僅かに足を緩める。
「……ん?」
 茜は、美幸が見つめてきているのに気が付いたのか、こちらを振り返った。二人の間に、沈黙が訪れる。
 それは、焦燥と、妬みと。
 ――私達は互いを交換してさえ、それでも互いの存在に焦がれているのだ。
 今まではそれを上手く隠してきた。美幸も、茜も、どうしてもお互いに成りきれない事を分かっていながら、それでも無理矢理キャンバスに色を塗り続けていたのだ。
 だが、秋が来てからは、その均衡が少しずつ崩れている気がする。
 私達はこんなにも近くにいる筈なのに。
 本当の私達で話し合う事をしなくなったのは、いつからなのだろう。
「……何でもない」
 美幸はふい、と顔を背けると、歩みを早めた。
 ――茜は、ついてこなかった。



 展覧会までまだ日があると思っていた筈だった。
 だが週をまたいでしまえば、展覧会はすぐそこまで迫っていた。
 朝の涼しい大気の中を美幸は歩いていく。行きも帰りも、歩道を行き交う人々は必死に歩いているような気がする。ただ朝の方が、強制的に必死を装っているような感覚でもある。
 美幸は満員電車とは反対方向の電車に乗り、都会から遠ざかっていく風景を眺めながら、無機質な声が告げる駅で降りた。
 そうして駅へと向かう人々の中を逆流し、優雅な構えの校門を踏み越えた。校庭からは、朝練の音が響いてくる。それに反して校舎内は、奇妙な静けさに満ちていた。
 そう、まるで昼休みの図書室のような光景なのだ。
 ぺたぺたと、廊下を歩く美幸の足音が天井に、そして壁に反響する。いつもとは反対に差してくる光の中を通って、いつものように美術室の扉を開けた。
 今まで無意識に動いていた足が、そこで止まる。
 秋が、美幸に背を向けて、座っていた。
 窓から入る新鮮な光が、柔らかに秋の身体を照らしている。光の加減で秋の絵は見えないのだが、だからこそ、その分彼の姿が浮き上がって見えていた。
 一瞬だけ、そこに――天使がいるように見えた。
 これを人は美しいと言うのだろうか。扉の音に気が付いたのだろう、秋がくるりと振り返って美幸を見つめ、ふわりと微笑む。
 その微笑みはどこまでも純粋な笑みだった。それが善であろうと、悪であろうと。
「おはよう。今日は小林さんもいるんだね」
「おはよう……。そ、今日中に全体を仕上げたいからね」
 いつもの通り挨拶を返しながら、美幸はさっさと美術室の中を横切る。そうして昨日、イーゼルに立て掛けたままの絵の前に立ち、ぼうやりとそれを眺めた。
 そこには、八割方色を付けた絵がある。おそらく今から続きを描けば、放課後には細かい修正などに入れる心積もりだった。
 長袖のブラウスをまくって、どっかりと椅子に座り込む。そうして、古びた木の箱から、絵筆やらパレットやらを取り出していく。
 ふと気が付くと、上履きが床にすれる音がした。
「お、すごいなぁ……」
 一度後ろに視線を送ると、秋が美幸のすぐ後ろに立って、絵に視線を注いでいるようだった。
「そうでしょ。力作」
「ふふ。小林さんって、美大志望?」
「一応ね」
 短い言葉を交わした後も、秋はまだそこにいて、絵に視線を注いでいるようだった。いつでも絵を描ける準備を整えた美幸は、秋へと振り返る。
 秋は一度美幸へと視線を落として、また絵へと視線を戻した。そうして、感心したような、そんなため息を漏らした。
「赤を使ってるからかな。とても激しいイメージだね」
「そう。らしくないでしょ?」
 美幸はこの前の茜との会話を思い出しながら、苦笑した。秋も同意してくれると思っていたのだ。
 だが秋は、笑わなかったし、そうだね、とも言わなかった。
 彼は意外そうな表情を美幸に向けると、ゆっくりと首を横に振る。
「そうかな? とても美幸さんらしいと思うよ。色使いとか、特にね」
 その時、美幸はきっと表情が不自然に固まってしまった、という自覚があった。秋の表情は、読めない。
 どこまでもその透明な視線。真摯な、真剣な眼差し。
 秋はふにゃ、と表情を崩して笑うと、再び自分の絵へと戻っていった。再び上履きがすれる音がして、美幸はようやく我に返る。
 凍りついた脳内に、必死に動けと命令しながら、美幸は絵筆を手に取った。赤色をパレットに出しながら、混乱した頭がひとつの事を理解する。
 今日はどうやら、長い一日になりそうだという事を。


 不自然に意識しているせいか、不気味なほどいつも通りに時間は流れ落ちていた。朝のホームルームも、一時間目の数学も。二時間目も三時間目も。
 美幸が座る窓際の席の向こうでは、いつもの高校生達の生活が紡がれている。不自然な自然さの、奇妙な連帯関係。決められた集団生活。
 昼休み、お昼を食べ終わるまで、美幸の生活もいつも通りだった。
 がやがやと賑やかな声が教室の内外で響く中、美幸は鞄を覗き込む。そうしてしばらくがさごそと鞄の中身をかき回して、しまった、と小さく舌打ちした。
 今日は朝早く起きて来たから、うっかり、机の上に返す筈の本を忘れてきてしまったのだ。
 それでも、ひとまず茜の顔を見てから図書室に向かおうと、美幸はいつものように立ち上がって、廊下へと出た。
 足早に歩いて、茜のクラスを覗き込む。
「……あれ?」
 彼女のクラスには、いつもグループの中心となって話している茜の姿は無かった。女子のグループはあるのだが、茜の姿がぽっかりと抜け落ちているのだ。
「あのー、茜は?」
 茜がいなくても、そのグループには知り合いはいるので、ひとまず美幸は声を掛けてみる。喧騒の中で、グループの女子達は振り返った。美幸を見て、不思議そうな表情を浮かべる。
「あれ? 小林さんの所に行くって聞いたけど」
「そっか。……ありがと」
 美幸はひとまず礼を述べると、その場を離れた。そうして、図書室へ行く道とは違う階段を駆け下りていく。
 自分のクラスには戻らなかった。
 茜は美術室にいるのだ。それは勘でしか無かったが、その勘には、長年の経験がつり積もっている。
 喧騒が掌から零れ落ちていくように消えていく。言葉がぽろぽろと抜け落ちていく感覚を味わいながら、美術室への道を急いだ。
 軋んだ音を立てて、扉を開く。やはりその扉の向こうには、茜がいた。
 そして、茜の隣には、秋が立っている。
「あ、本当に来た」
 秋は美幸を見て、邪気の無い微笑を見せた。茜も遠慮ながら、笑いかけてくる。
「とりあえず、大体は完成したんだ」
 秋はおもむろにそう言うと、キャンバスへと目を移した。美幸は静かに扉を閉めて、その絵へと近付く。
「あんまり似せるのもあれだから、雰囲気だけ似せて描いて見たんだけど……」
 そして、秋はキャンバスの中央に座る、二人の女性を指差した。
「こっちが小林さんで、こっちが海道さん」
 彼が指差した先を見て――咄嗟には、言葉を出すことが出来なかった。
 そのキャンバスには、緑に溢れた森の中で、白い服を纏った二人が椅子に座っている。それぞれ手にハープとフルートを持ち、音を奏でている絵が描かれていた。
 確かに顔形までそっくり似ている訳では無かったのだが、特に髪の毛は似せたようだった。対照的な二人の髪型が描き出されている。
「――……逆じゃ、ない?」
 美幸はやっとの事で、言葉を搾り出していた。
 今は六月の筈なのに、妙に乾燥していて、我ながら変な声だとどうでも良い事を考える。
 秋は美幸の言葉にきょとんと首を傾げ、ああ、と一言呟いた。
「最初は反対で描いてたんだけど、どうもしっくりこなくて。俺が思う二人って、こんなイメージなんだよね」
 そうして、大きく伸びをして、絵へと視線を戻す。
 今、秋は。
 黒い、真っ直ぐな日本人形の髪型の女性を茜と指し、ふわふわの、やや色素が薄めの女性を美幸と指したのだ。
 秋が椅子にゆっくりと腰掛け直す音が、どこか遠くに聞こえる。
 ゆら、と視線を茜に移した。
 そして彼女の表情を伺って、ああ、と心の中で小さく呟く。
 もう、私達はいつもの私達ではいられないのだ。
 ぷつん、と何かが切れる音が――実際にはそんな音はしない筈なのに――その時の美幸の耳には、はっきり捉えられていた。
「……やっぱり、無理なのよ」
 表情の無い茜の口から、小さく言葉が滑り出た。美幸へと向けてくるその視線は、他の部分とは違って、激しい感情を帯びている。
 それは「私」に対する、憧れと――憧れのあまり生まれた、激しい妬みだった。
 かつて、お互いを交換する前に、よく交わしていた視線だ。
「……二人とも、……どうしたの……?」
 秋の後ろに立つ二人の醸し出す雰囲気に気が付いたのか、振り向いた秋がおそるおそる言葉を発した。
 だがそれは、二人のどこか遠くでしか、聞こえない。
 ふつふつと、頭の中が揺れるのが分かる。湧き上がる、体温。
「私はいつだって、茜の傍にいたから、茜になる事だって出来ると思ってた。……でも、やっぱり無理なのよ!」
「だったら、私にどうしろと言うのよ。美幸こそ、後悔してるんじゃない」
「当たり前でしょ! あんな事――やっぱりやらなきゃ良かったのよ」
 その言葉に、美幸は目の前が赤く染まるような感覚を覚えていた。
 大きく心臓が跳ね上がる。
 一歩ずい、と踏み出したとき、思ったよりも近くから、制止の声が掛かった。
「――二人とも……?」
 この場面に、秋が、部外者がいることは、最早どうでも良いことだった。最も守るべき秘密が第三者の前で暴露されている筈なのに、美幸の頭はそこまで考えが至らない。
 美幸の脳内に記憶されていたよりも、ずっと低い声で、強い力で阻まれて。一瞬にして、何メートルも走ってきたような感覚に陥った。
 脳内を支配している感情は、たったふたつだけ。
 悔しさと――憎らしさ。
 茜に理解されてもらえないこの悔しさが。
 秋がこの絵を完成させてしまった憎らしさが、その時の美幸の全身を支配していたのだ。
「……っ」
 美幸はくるりと身を翻すと、美術室から飛び出す。今あの場に、あれ以上留まっている事は、最早不可能だった。
 衝動のままに走る。走って、走って。
 ――気が付けば彼女は、本来この時間にいる筈の、図書室の前へとやってきていた。
「はあ、はあ、はあ……!」
 誰も通らない図書室の前で弾んだ息を整える。
 そして、やっと息が落ち着いた所で、図書室の扉へと手を掛けた。その行動は、確かに日常へと戻ってきた筈の行動だったが、その間に、大きな亀裂を作ってきてしまった。
 それが、治ることすら、今となっては分からない。
「……何やってんだろ、私」
 訳も無く眦が熱くなって、美幸は自嘲気味に呟いた。そうして、表情を隠すようにしながら、図書室の扉を開けた。
 相変わらず、この学校の図書室は人が少ない。