彼は当たり前の表情で何一つこのクラスの秩序を変える事無く、クラスの一員となっていた。
おそらくこの教室という、微妙な均衡が保たれている空間では、ひとり生徒が混じっただけで、クラス内の秩序は変わるだろう。
だが、秋はその秩序を何一つ変える事無く、このクラスに溶け込んでいる。
それは美幸も感じていた。彼女の日常も変化した筈なのに、不自然な程に変化していないように感じられる。
ただひとつだけ変わった事がある。時々秋に見られている事だ。
授業の合間などに、ふと秋へと視線を向けると、彼は新しいクロッキー帳を開いていた。そして、美幸の姿をデッサンしている事があるのだ。
最初にモデルを拒まなかった以上、それを止める事は出来ない。
秋は美幸と視線が合うと、一度だけ微笑むのだが、後は真摯な視線を向けて、ひたすらクロッキー帳へ、美幸の姿を描き続けるのだ。
その時の秋の姿は、何かを超越したような、不可思議な存在となっていた。
どちらかと言うと、彼は気さくに話しかけやすい存在だが、その時ばかりは、周りの女子達が話しかけてくる事は無い。
その目で見られることは、どこか肌寒さを感じ、そしてどうしてかは分からないが、安堵を感じた。
そして何よりも、美幸自身も展覧会に向けて、本格的にエンジンを始動させなければならなかった。
そういう訳で、いつも以上に無口になり、授業が終われば即座に美術室へ向かい、絵と向かい合っている事が多かったのだ。
そして今日も、美幸は美術室で、絵と向かい合っていた。流石に展覧会前ともなると、幽霊状態と化している部員達も皆、美術室にやってきて絵を描いている。普段の、和気藹々とした雰囲気の部活は、この時ばかりは静寂に包まれるのだ。
「ふー……」
放課後真っ先に来て、筆を取っていた美幸は、大きくため息を吐き出した。随分と向かい合っていたので、集中力が切れてしまったのだ。
絵筆をパレットの上に転がして、大きく伸びをする。時計へと視線を向ければ、もうすぐ夕方五時になる所だった。
今日も空は梅雨らしく、灰色だ。気温が下がって過ごしやすくはなったものの、それ以上に湿気が多くなる。
夏になれば、冷房なしでは不快になる事を考えるとたちまち鬱陶しくなって、頭を振ってその考えを取り払った。絵筆を洗浄液の壺に入れて、汚れを落としていく。
今美幸が取り組んでいる絵は、展覧会に出すものの中でも一番大きなものだった。赤い色をふんだんに使った、どちらかというと激しい印象を抱かせる絵だと思っている。
やはりどうあがいても、絵には描く人の心が出るものだな、といつも思う。
洗い終わった絵筆を丁寧に紙で拭いとり、それをそっとパレットの横に置いた。そうして大きく伸びをして、凝り固まった体をほぐす。
身体を左右に大きく振りながら、右側に座っている茜の絵を覗き込んだ。
茜がいま手がけているものは、美幸のものと大きさこそ変わらないものの、まるで正反対の印象を抱かせるものだった。
それもその筈だ。
私達は、お互いの姿に憧れ、焦がれすぎてそれを憎んですらいるのだから。
「お、休憩?」
立ち上がった美幸に気がついてか、茜は顔を上げる。
「うん。自販行ってくる。何か買ってくるけど」
「うーん、いいや」
直ぐに顔を戻した茜からは、明らかに生返事と分かる答えが返ってきた。それを背中で聞きながら、財布を取り出し、入り口へと向かう。
秋は、美幸と茜よりも少し離れた、入り口近くに陣取っていた。どうやらそこが、美幸達をデッサンするには丁度良い位置だったらしい。彼はきちんとモデルになってもらう、という事をせずに、日常のヒトコマをデッサンする事が多いことが分かってきている。
秋は既に、カンバスへと向かって、墨を動かしていた。黙々と、淡々と墨を動かす動作を続けている。
そこには、くっきりと、美幸と茜の姿が描かれていた。衣装などが現実離れしているので、おそらくは幻想的なものを描くつもりなのだろう。
ちらりとそれへ目線を送ると、足を止める事無く、美幸は美術室を出た。廊下を進んでいけば、幾分静けさに包まれた校舎が彼女を迎える。校庭からの喧騒が、大きくなって耳に届く。
階段を下りて、外へと繋がる廊下を歩いていく。自動販売機は食堂の横に設置されているので、一度校舎から出なければならない。遠いところが面倒だと、いつも思う。
そうして歩いていると、食堂側から、見知った顔が歩いてきた。美幸のクラスメイトの彼女達は、美幸に気がつくと、あ、と呟いて歩みを止める。
「部活?」
「うん」
二人は美幸の問いに答えを返すが、どこか煮え切らないような表情を浮かべていた。美幸は心の中で首を傾げるが、そこまで親しい訳でもなかったので、彼女達の横を通り過ぎようと試みる。
「あ、待って……!」
その時、二人は美幸を切羽詰った声で呼び止めた。やはり何かあるのだろうか。
「うん? 何かあった?」
「うん……」
二人はお互いを見ながら、どちらが話そうか思案しているようであった。やがて、二人のうち、比較的しっかりとした性格の子が口を開く。
「今ね、私達、隣の高校と合同練習してるんだけど……。三浦君って、その高校から転校してきたんだって」
「……え?」
唐突に出てきた秋の名前に、美幸はぽかりと口を開いた。二人は意を決したように、さらに続く言葉を紡ぐ。
ぼんやりとしながら、惰性で美幸は美術室への階段を上っていた。右手にあるお茶のペットボトルが、たぷん、と重く揺れる。
一番上まで階段を上った時、後ろからたん、と軽やかな音がした。くるりと振り向くと、手に荷物を持った茜が階段を上ってきている。
「あ、美幸だ」
「……忘れ物?」
美幸を見つけて、茜はひとつ微笑む。手の荷物を指差されて、茜はひとつ頷いた。
「そう、ちょっと教室にね。……って、お茶泡立ってるよ?」
「ああ……」
飲まないの、と指摘されて、美幸は右手のお茶を見下ろした。それと一緒に、数分前の記憶も蘇ってきて、思わず眉をしかめてしまう。
「……どうしたの?」
その表情に茜も気が付いたのだろう、不思議そうに尋ねてきた。
「うん、ちょっと……ね。さっき、クラスの子から噂を聞いて」
「……もしかして、三浦君について?」
「……それ、……」
茜の反応に、美幸は右手に下ろしていた視線を動かした。茜の表情は、今の美幸と同じ、どこか曇っているものだった。
「茜も聞いたの?」
「うん、……さっき聞いた」
(三浦君って、年子のお姉さんがいるんだけど、その……お姉さんとの近親相姦が見つかって、ここに転校させられた、ってもっぱらの噂なんだって)
「……どう思う?」
美幸の問いに、茜は珍しく黙ったまま、首を横に振ったきりだった。普段なら直ぐに思った事を口に出す茜にしても、確かに憚られる事なのだ。
美幸はゆっくりと、その噂について考えを巡らせていた。
それはただの単なる噂なのだ。
別に秋が姉を愛していたって、それが私達に何か関わる訳では無い。ただ秋が、自分達の身近にいる存在になりつつあるから、驚いているだけなのだ。そして彼が、限りなく中性に近い存在でもあるから、余計にその差が激しくて驚いているのだ。
けれども、ただの噂の筈なのに気になるのは、あの絵のせいなのだろう。
美幸の脳裏に、何枚もひとりの女性が描かれていた、秋のクロッキー帳が浮かび上がっていた。おそらく茜も煮え切らない表情を浮かべているのは、あのクロッキー帳があるからなのだろう。
それは普通の、対して絵に執着心が無い人が見たならば、普通の女性の絵に見えたのかもしれない。
ただあの時。
美幸の目には、それは、確実に、強い感情を持って描かれていたように映っていた。
あの、女の子といる方がしっくりくる秋からは到底見受けられない感情。
激しく誰かを愛していた、ひとりの男としての感情だったのだ――。
茜が、たん、と音を立てて階段を上りきる。その音に、美幸は我に返って茜を見た。
「ひとまず、戻ろうか」
「そうね。……機会を見て、聞いてみる事が出来れば良いんだけど」
茜は美幸を見返して、ひとつ頷く。美幸はそのまま歩いていく茜の背を追って、美術室へと戻った。
がらり、と扉が大きな音を立てたが、皆それぞれの作品に集中している為か、振り向く者はいない。
そんな中、入り口近くに陣取っていた秋が、ことんと音を立てて絵筆を置いた。そうしてひとつ伸びをして、二人を振り返る。
「あ、二人とも休憩中?」
「私は荷物を取りにいっただけ、かな?」
秋は小声で二人に話しかけてきた。茜がにこりと荷物を掲げてみせるのに対して、美幸は黙って右手のお茶を持ち上げる。
「あ、良いなあ。俺もなんだか喉が渇いたから買ってこようかなぁ」
秋はそう言うと、鞄からごそごそと財布を取り出しているようだった。
「私も買おっかな。ね、美幸ももうちょっと休憩する気ない?」
茜が秋につられてか、荷物を自分の席へと放り出しながら、美幸を振り返った。声の調子と違って、顔の表情はどこか強張っている。
つまり、自分について来て欲しいという事なのだろう。美幸は小さくため息を吐くと、そのまま美術室の外へと出た。
その後ろを茜と秋がついてくる足音がする。もう一度階段を下りながら、美幸はどこで秋に話を持ち掛けるかを考えていた。
後ろでは、茜と秋が表面上では、たわいの無い会話をしている。
「ね、三浦君って、女の姉弟とかいるの?」
「……うん、いるけど……なんで?」
「やっぱりそうかぁ! なんか、お姉さんとか妹とかいますって感じがするもの。お姉さん?」
「そう。ひとつ上かな」
秋はいつもと同じ調子で、茜の質問に答えている。そこからは、特に変わった感情は見受けられない。
そうして階段を下りたとき、ふと目の前を違う制服の生徒が歩いていった。それは美幸にも見覚えがある。隣の高校の制服だろう。
「――三浦君……?」
その時、ふと茜の声が変わり、美幸はくるりと後ろを振り返る。
そこには、茜と秋の姿があった。秋は階段の途中で立ち止まり、じっと何かを見ているようだった。美幸は少しだけ視線を移動させ、秋が隣の高校の生徒を見ている事に気が付く。
そうして秋に目を戻して、美幸は思考を止めていた。
そこに立つ秋は、いつもの、女子に紛れてもおかしくない秋では無かった。
それは、デッサンをする時や、ひたすらキャンバスに向かって絵を描いている時の雰囲気に酷似していた。
何かを求めている、男としての姿――、ひしひしとした、痛みにも近い雰囲気を醸し出している。
「三浦君?」
美幸が声を掛けると、秋は目を瞬いて、そうして二人へと視線を移した。一瞬だけ、ふ、と真顔になったかと思うと、次の瞬間にはいつもの、空気のような、中性的な存在へと戻っていた。
「あ、ごめんごめん」
秋はへら、と笑うと、軽やかに階段を下りてきた。
美幸は茜と僅かに視線を交わす。
茜は何事も無かったかのように、先に立って歩き出した。こうした場合には、美幸の方が上手く立ち回れると、長年の経験から分かっているのだ。
「知り合いの人?」
「ん? 何が?」
何事も無かったかのように振舞う秋に、美幸も合わせながらも、じわじわと問題の話題へと斬り込んでいく。
「さっき、あの子達見てたから」
「あー……、知り合いって訳じゃ無いけど」
秋は一瞬だけ、何かを考えるかのように言葉を詰まらせると、ちら、とこちらへ目線を向けてきた。美幸は視線を合わせ、――そして、一瞬だけ思考を止めそうになる。
「――み」
「まあ、誰にだって秘密はあるからね?」
秋はそう真顔で言うと、足を緩めた美幸を追い越して、先に歩いていった。茜と秋、二人の背中が午後の柔らかい光に照らされている。
美幸はそれを眺めながら、ゆっくりと歩いていた。
手に、じっとりと、水滴が纏わり付いているのが分かった。