美幸は、文庫の棚までいつもの通りに歩いていった。そして、文庫の背表紙に静かに触れる。
それは、秋が転校してきた日、彼が触れていたものだった。
そこで、ぴたりと動きを止めた。脳裏に、数日前にクラスメイトから告げられた噂を思い出したからだ。
今、あの二人はどうしているのだろう。冷静になった所で、茜に対しての自分が放った言葉に、美幸は後悔の念に刈られる。
窓の外に視線を向けた美幸の耳に、間延びしたチャイムの音が響いてきた。あと五分で本鈴が鳴るのだろう。
だが美幸の足は、どうしてもクラスへと動かない。
今、この足でクラスに返って、自分は秋とどんな顔をして合わせれば良いのか。
何よりもどんな「自分」で授業を受けたらいいのか、分からないのだ。
人生初のサボりだ、と美幸は何の感慨も為しに思いながら、より図書室の奥へと足を運ぼうとした。
その時、がらり、と音がして、図書室の扉が開いた。
美幸は何の気もなしにそちらへと目をやって、図書室の奥へと運ぼうとしていた足が止める。
図書室に入ってきたのは、秋だった。彼は美幸の姿を認めて、幾分申し訳なさそうな表情を見せる。
どうしよう、という思いで頭の中が一杯になっていた。数分前に覚えていた、激しい憎しみの激情は、今は鳴りを潜めている。代わりに、あの行動に対しての恥ずかしさと、申し訳なさが込み上げてきていたのだ。
きっと自分は今、とても間抜けな顔を晒しているに違いない。
「……そっちに行っても、良いかな?」
頭の中が大混乱を起こしていた美幸に、秋はそっと語りかけてきた。その穏やかさが、慎重さが、美幸の心を落ち着けていくのが分かる。
「……うん」
美幸が頷いたのを見て、秋はそろそろと歩いて来ていた。その姿はいつもの、女の子の中に紛れ込んでいても気が付かないような、中性的な雰囲気だ。
先程の美幸を止めた、あの男らしさは見受けられない。
「授業は?」
「……サボり、かな?」
「そうね。……ちょっと、こっちに来て」
美幸はそう言うと、今度こそ図書室の奥へと足を運ぶ。秋は何も言わず、静かに美幸の後ろを歩いて来ていた。
図書室の一番奥、角の天井まで届く本棚の前で、美幸は足を止めた。そして、秋を振り返らずにその棚を見上げる。
「ここ、私のお気に入りの空間」
「……すごいね。画集がこんなに……」
美幸の隣に立った秋も本棚を見上げて、感嘆のため息を漏らした。彼らの前にある棚には、美術関係のありとあらゆる本が詰め込まれているのだ。
秋はその中の一冊を手にとると、すぐ傍にある窓へと歩み寄る。そして、窓の下、かなり低めに作られている棚へと腰掛け、ぱらりと本のページを捲っていた。
美幸も手前の棚へと寄りかかり、しばらく本棚を見上げていた。
授業が始まってもいるので、図書室内は水を打ったような静寂が広がっている。秋の、ページを捲る音がはっきりと聞きとれる程に。
「……ごめん」
やがて、美幸はぽつりと呟いた。画集に目を落としていた秋の顔がゆるりと上がる。
「さっき、きっと睨んでたから」
美幸の言葉に、秋はああ、と頷いて、思い出したのか苦笑した。
「確かにちょっと怖かったかも。でも、その言葉は海道さんに言ってあげた方が良いと思うよ」
「茜、何か言ってた?」
「……落ち込んでた。美幸は悪くないのに、って」
「……そう」
ざ、と窓の外に見えている木の緑が大きく揺れた。ざ、ざ、とそれは幾つもの音を持ってくる。秋はぱたりと画集を閉じて、自分の横に置いた。
「私達の秘密は、聞いた?」
「一応。あなたが本当は、『茜』さん、なんでしょ?」
「……うん」
「どうりで、違和感があった訳だ。……でも、家族とかには気づかれないの?」
「成績はほとんど同じなの」
「三者面談はとかは、どうしてるの?」
「兄だけには、事情を話してる」
「……なるほどね。それで普通に生活できている訳だ」
「そう。兄は呆れてる」
「……そりゃ、そうだろうね」
秋は窓の外へと目をやると、小さく苦笑した。その眼は緑を見ているようで、遥か遠くを見ているようにも取れる。
「――三浦君は、鋭いのね」
「そうかな。でも鋭いと――余計な事にも気が付いてしまって、時々困る」
彼は窓の外を見たまま、そう呟いた。
余計な事とは何だろう。聞いてはいけない事は分かりきっていた。
だが、今なら、聞いても許される。そんな気がした。寧ろ、聞くなら今しか無いのだろう。
「……それは、お姉さんとの事?」
美幸がそう言った途端、秋はゆっくりと視線を室内へ戻していた。美幸へと無表情な眼差しを向ける。
何度か見かけた、透明な眼差しに、思わず喉を鳴らしそうになった。
きっと秋は、この眼で、全てを見抜いてしまうのだ。本人すらそれを憎む程に。そう感じたとき、秋は視線をずらして、少しだけ口の端を上げた。
そこには、明らかな表情の変化があって、美幸は思わず目を見張る。
今の秋は、明らかに男性の雰囲気を纏っていた。普段、女子達と話している方がしっくりくる秋では無く、そこにいたのは、ひとりの男としての、秋だった。
「……やっぱり、聞いた?」
「……――うん」
美幸は秋の問いにしばらく間をおいて頷いた。声も、同じ秋から発されているのに、明らかに雰囲気が違っている。
きっとこれが、本当の秋の姿なのだ。どうしてだか分からないが、美幸はそう感じていた。秋は隣の画集へと目を落としている。
「あの時も、俺が気がつかなければ良かったんだ。俺が色んな事に気が付かなければ、ね」
そうして、静かに画集の表紙へと触れる。その指は僅かに震えていた。
「……今も、好きなの?」
「……簡単に割り切っていたら、ここにはいないね」
そうして、秋は立ち上がると、本を棚の定位置へと戻していた。美幸はただそれをぼうやりと眺めている。
「……好きになるって、難しい」
「うん」
秋は美幸の方を見なかったが、ただひとつだけ頷いた。
「私も、三浦君がお姉さんを好きなのと同じくらい、きっと美幸が好きだった」
そう、自分は「美幸」に憧れていた。大好きだった。それは「美幸」も同じだった。
その時の二人は、今の二人のように、ひどく危なっかしくて、そしてぷつりと切れてしまう糸のような、そんな脆さを持っていた。
お互いの性質に憧れて。焦がれて、焦がれて妬んでしまうほどに。
「好きだった筈なのに――」
言葉が繋がらなかった。頭の中は妙に冴えていて、それなのに何の言葉も出てこない。
お互いを交換するという、三年間だけの秘密の遊戯。それは、二人の関係を修復してくれる、と信じていた。
美幸の頭の中に用意されたキャンバスには、もっと甘美で、楽しい遊戯が描かれていたのだ。
だが、どうしてこんなにも苦しくなってしまうのだろう。あんなにも美幸に憧れていた筈なのに、どうして茜を見ると、どうしようもない妬みが浮かんでくるのだろう。
「……難しいよね」
秋は本棚を見つめたまま、ぽつりと呟いた。それは冷淡な響きを帯びていたが、幾つもの苦渋が折り重なっているもののように感じられた。
そして、また画集を取り出して、窓際の棚へと腰掛ける。彼はぱら、ぱらとそれを開きながら、再び口を開いていた。
「思い通りに生きることは、最初のイメージスケッチと同じ絵を仕上げるくらい、難しいんだな、って最近気が付いたんだ」
「……うん」
確かに、最初のイメージとそっくり同じ絵を描き上げる事は、皆無に近いくらい難しいことだ。いつも途中で道が捻じ曲がり、そしてしまいには全く違う絵が出来上がってしまう事も多い。
そしてその絵が、決して自分の気に入るものとは、限らないのだ。
「でもさ、それでも、進むしかないんだよね」
秋はそう呟いて、そして自嘲の笑みを浮かべる。美幸は窓の外へと視線を移した。
そう。例えどんなに、捻じ曲がってしまったこの道が気に入らなくても。それでも私達は進まなければならない。そこが、嫌になったら上から塗りつぶしてしまえる油絵と人生の違いなのだ、とも思う。
私達は、この高校生という途方も無いキャンバスに、色を塗り続けなければならないのだ。
「そうね」
美幸は寄りかかっていた棚から背を起こし、小さく笑う。画集から顔を上げ、きょとんと首を傾げる秋に、茜がいつもするように、にこりと笑みを浮かべてみせた。
「……やっぱり美幸さんは、赤いイメージなんだね」
秋はそう言うと、小さく笑っていた。
展覧会初日は休日ということもあって、展示させて貰うショッピングモールは賑やかだった。美幸はひとりその賑やかな輪を早足ですり抜け、人気のない階段へと向かう。そしてすう、と息を吸い込むと、階段を全速力で上がっていた。
大抵こういった所のギャラリーは、上の階に設置されている。美幸が目的地に到着した時は、既に息が上がりきっていた。
どうしてギャラリーは上の階にあるのだろう。そんな事を考えながら、下の階と違って、落ち着いた人の波を息を不自然に弾ませながら歩いていく。
「あ、美幸、お疲れ。それで全部?」
展覧会の入り口に立っていた茜は、美幸の姿を見つけると小走りに走ってきた。そうして、美幸が抱えている荷物を受け取り、てきぱきと準備を進めていく。それを眺めつつ、美幸はどっかりと息を吐いていた。
「つ、疲れた……」
やや大げさに息を吐きながら、受付の椅子に座り込む美幸。
「そこ、休憩場所じゃ無いけど」
受付に置いてある小道具を手に取りながら、呆れたように茜が視線を向けてきた。美幸は斜め上に視線を向け、笑みを浮かべてみせる。
「ちょっとだけ、休憩させて……」
「美幸、それすごくオバサンっぽい」
茜は呆れた視線のまま、しょうがないな、と小さく笑ってみせた。束の間、二人の間に沈黙が走る。
あの日の帰り道、二人はぽつぽつと話をしながら帰った。内容は、主にこれからの事。
そして、決めたのだ。私達は、私達の秘密を守りきろうと。
きっと、どんなに足掻いたって、私達はお互いに焦がれる事から逃げることは出来ないのだから。
今日、二人が交わす視線は、かつてのそれに酷似したものだ。
憧れと、焦がれの先にある妬みと。そして――。
そんな二人に、斜め上から声が降ってきた。
「あ、丁度良い所に人手が。手伝ってくれないかな?」
そこに立っていたのは、秋だった。彼はひとりでは持ち上げるのが難しい大きな作品を支えながら、苦笑を浮かべている。
「私、今休憩中です」
そもそもどうして、ショッピングモールの下から上まで、忘れていた荷物を全速力で届けるという仕事が自分に回ってくるのだろうか。
どう贔屓目に見ても、秋の方が体力があるに違いないのだ。確かに今男子達は設営に刈り出されているが、全員という訳では無い。秋なんかはその最たる人物だ。
「あとこれだけだからさ、お願いします」
秋はへにゃ、と相好を崩しながらお願いする。
きっと、この中性的な雰囲気のせいだ。彼はそこまで背が高くないから、この雰囲気を醸し出すと、美幸の方が力が強く見えるに違いない。
何だか妙に悔しい。
「……はいはい」
だが目の前で困っている秋のお願いをつっぱねるのも大人気ない。仕方なしに、美幸は運搬を手伝う。
「それにしても……、こんな大きい絵、誰が描いてたのよ」
運ぶのが面倒じゃない、と愚痴を漏らした美幸に、何故か秋は引きつったような表情を見せた。その珍しい表情に、心の中で首を捻った美幸だったが、すぐにその疑問は氷解していた。
「面倒で悪かったな」
「せ、先生のでしたか……!」
唐突に、絵を運ぶ美幸の横に、ふらりと先生が現れた。そうしてどこか低い声で呟く先生に、思わず美幸は叫び声を上げてしまう。
「いやー、まさか先生のとは思わなくて……」
美幸は心の中でも外でも冷や汗をかきながら、何とか所定の位置に絵を運んだ。未だに絡んでくる先生を笑顔で交わしながら、周りにいた生徒達も巻き込んで絵を固定する。
このような作業には慣れている事もあって、作業自体は手早く進んだ。
「よし、これで最後かな」
「今年も随分早くなったわね」
秋がそう言いながら、リストにチェックを入れていく。その横に立って、それを見ていた美幸に、先生がどこか不思議そうな表情を向けてきた。
「――何か御用ですか?」
「いや、そうじゃ無いんだが……」
先生は躊躇いがちにそう呟くと、美幸へ視線を向けた。そうして、どこか戸惑ったかのような表情を見せる。
「何か、変わったな」
「え?」
「いや、小林の雰囲気が。あー、そう言われれば、海道も最近何か変わったよな」
先生の言葉に、美幸は一瞬きょとんと首を傾げ、そうして静かに微笑んだ。
「そうですか? ……きっと気のせいですって」
「そうかなぁ……」
そう軽口を言い合う美幸達の横には、彼女達の作品も展示してあった。
青を基調とした、全体的に静けさを漂わせる作品。そして、赤を基調とした、画面全体が激しく躍動している作品。
青の作品には、小林美幸と名前が記されており、赤の作品には、海道茜と名前が記されている。
その奥では、森の妖精達が、淡く笑みを浮かべながら楽器を奏でていた。
(完)
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お読み頂き、ありがとうございました。