二人の関係は、確かにただの幼馴染ではない。
この学校では、自分は小林美幸という名前だが、戸籍上は海道茜という名前を持っている。
学校では「小林さん」とか「美幸」とか呼ばれているが、家の表札は「海道」だし、家の人は美幸を「茜」と呼んでいる。
幼馴染の茜とは、家が隣同士ということもあって、毎日一緒に過ごしていた。小学校も中学校も、そして今も。
ただ、今の二人の性格は、中学校までは丁度正反対だった。いつも明るく、そつなく人間関係をこなす美幸と違って、茜は激しい人見知りだったのだ。本を読むのが好きな事もあって、いつも窓際で本を読んでいた。
そして、とある日の帰り道、ふとした会話から、この秘密を作り上げたのだ。
(――いいなあ、茜は)
(何が?)
(私も、茜みたいに、皆と話してみたい)
その日はやけに夕焼けが赤かったのを覚えている。
(そう? 私も、美幸の静けさ、好きだけどなぁ)
(そう、かな……)
隣を歩く幼馴染は、そう呟くと小さく俯いた。それを見て、自分はこの幼馴染を何とか助けてやりたい、と心の底から願った。それと同時に、この幼馴染が欲しい、とも妬け付くような心で感じていた。
(ね、ちょっと面白いこと、思いついちゃった)
(……何?)
(私達を交換するの。中身をね)
そう言って、「茜」は、ふわふわの、色素が薄い髪型をしている「美幸」へと笑いかけたのだった。
そうして二人は、入念に下調べをし、この高校へ、お互いを交換して入学することに成功した。
今までそれは、二人だけの甘美で、大事な秘密だった。二人は大事な秘密を抱えながら、辛うじて幼馴染という関係に収まっているのだ。
美幸はそっと秋から視線を外して、本の背表紙へと視線を戻していた。
現代文の解説が行われている中、美幸は窓から外を眺めていた。そこからは校庭を見下ろす事が出来る。
校庭では、体育の授業が行われているようだった。それも、茜のクラスの。
美幸はぼんやりと外を見る振りをしながら、茜の姿を探していた。校庭を幾つもの青い点が走っている。その内のひとつの、すらっとした点を見つけて、美幸は彼女の姿を追っていた。
茜は数人の、仲の良い友達と一緒に、トラックを走っているようだった。それを目で追う。
このまま秋と接していると、自分達は壊れてしまうかもしれない。
小学校からずっと、美幸と茜は仲が良いと思われてきた。親達も確実にそう考えていた筈だし、二人もそれを疑わずに今まで生きてきた。
私達は仲の良い幼馴染。
だが、今日。初めて、二人に疑問を投げかけてくる人物が、いる。それは恐ろしいまでに透明な声音で、真実をついてくるのだ。
図書館での秋の声を思い出し、美幸は自然、身震いしそうになった。今となっては、その行動さえも秋に監視されているような、そんな気がして、迂闊に動けない自分がいる。
窓から視線を外し、そっと教科書へと戻した。視線を外す刹那、茜の視線が絡み付いてきたような気がしたが、気のせいだと思い直し、見えていないフリをする。
黒板に白く、流麗な文字が流れていくところで、無常にもチャイムが鳴り響いた。号令係がいつものように惰性で声を掛け、美幸はふらふらと立ち上がる。その数秒間の後、教室はたちまち喧騒に包まれていった。
美幸もそれに慣れているフリをしながら、そっと教科書類を鞄へ放り込んでいく。がらりと向こうで扉が開け閉めされる音が何度も響いた。
「席につけぇ」
いつもと同じく、担任が手にプリントの束を持ちながら、教室の中へと入っていく。それを境界に、ゆるゆると席につくもの。だらだらと適当に話をするもの。
「小林さん」
不意に声を掛けられて、美幸は肩を震わせた。
いや、不意にでは無い。声を掛けられる事は十分に予想していた。それでも肩が震えたのは、おそらくは恐怖の為。
美幸にはそれが予想できていた。
だから、だからこそ、怖い。
「……何?」
美幸は出来るだけいつも通りを装って、くるりと後ろを振り返った。そこには、淡い笑みを浮かべた秋の姿がある。
「えっと、放課後、どうすれば良いかな? 一度先生の所へ寄ってから、部室に行きたいんだけど……」
「そうね、じゃ、教室で待ってる」
「……分かった。ありがとう」
秋のその言葉を背に、美幸は前に向き直す。そうして、僅かに小さく、息を吐いた。彼女の視界の向こうでは、担任の先生がプリントを生徒達に配り、それを皆は気だるげに受け取る光景が広がっている。
「それじゃ、ホームルーム終わり」
掃除しっかりしろよ、との言葉を最後に、再び教室がざわざわとざわめき出す。美幸も掃除の手伝いをする為、のろのろと立ち上がった。
その時、ざわ、と風が吹いていった。
立ち上がった美幸の右隣から、秋が担任の先生へと声を掛けるべく、通り過ぎていく。
その時の風は、僅かに乾いた匂いがしていた。
秋は教室を出て行った先生を追いかけ、何事かを話しかけていた。おそらく、部活動について何やら話しているのだろう。開け放された廊下側の窓から、手振りを使って話している秋の姿が見える。
やがて、秋は先生に頭を下げると、また教室の中へと入って来た。美幸が追っていた視線に気がついたのか、ふとそのどこか透明な視線と視線が合う。
「話、終わった?」
「うん。今日は美術部に行かせてもらいますって、言ってきた」
秋はふわりとそう言うと、静かに鞄の中へ教科書を放り込んでいく。その鞄の中に、一冊のクロッキー帳が入っていることに、ふと美幸は気がついた。
秋は視線を上げ、美幸の視線の先に気がついたのか、小さく笑う。
「小林さんも、クロッキー帳持ってるんでしょ?」
「うん、まあ……」
「よし、後で見せてもらおっと!」
秋は楽しげにそう言うと、鞄のジッパーをじ、じ、と音をさせながら上げていく。そうして完全に上がったそれを担いで、美幸に面白げな視線を向けた。
「お待たせした、かな?」
「ううん。……じゃ、行こうか」
美幸は秋にそれだけ告げると、鞄を拾い上げて背負った。そして、掃除中でざわついている教室から抜け出す。
二人は、並ぶか並ばないかの微妙な立ち位置を保ったまま、廊下を歩いて美術室へと向かう。
美幸がいつも使っている美術室は、図書室と同じで、学校から断絶された場所にあった。校舎を行き、廊下の折れ曲がった先にぽつり、とある。
美術の先生が選んだ作品が幾つか、廊下に貼り出されているのが目印だ。今は、アクリル画が飾られている。鮮やかな、アクリル絵の具特有の色彩が、外から入って来た光に照らされていた。
「……ここも、図書室と似ているんだね」
「……そうね」
後ろを歩く秋も同じ意見を持ったようだ。美幸はおざなりに頷きつつ、彫刻刀のようなもので抉られた戸に手を掛けた。
図書室と違うのは、おそらく鼻腔一杯に広がる、油の匂いだろう。
美術室は、誰もいなかった。丁度今は授業で油絵をしているので、机に可愛らしくりんごや、茶色のランプなどが飾られている。
均等の間隔を置かれて書かれたそれが、まるで時間に置き去りにされてしまったかのようだった。
「美術部って、何人くらいいるの?」
ふと疑問に思ったのだろう、油絵の為に置かれたオブジェ達を眺めながら、秋が尋ねてきた。美幸はゆっくりと首を傾げる。
「うちは好きな時に活動するスタイルだからなあ……正確な人数は、多分部長と先生しか知らないんじゃない?」
「部長は?」
「三年の先輩」
手持ち無沙汰になった美幸は、鞄をいつも使っている椅子の上に下ろした。そして、外の空気を入れ替えるべく、窓へと近付く。
僅かに軋ませる音を立てて、窓が開いた。外からは相変わらず生温い空気しか入ってこない。その澱んだ空気がまるで、今の自分を表すようで、美幸は思わず眉をしかめた。
そうしていると、廊下から騒がしい音がして、派手に美術室の扉が開かれる。
「あーもう、ほんっとに掃除って面倒だよねぇ」
「茜」
どうやら掃除当番であったらしい茜は、盛大に文句を垂らしながら美術室へと足を踏み入れた。そうして、美幸と秋がいることを知ると、途端に彼女はいつもの華やかな笑顔を浮かべた。
「あ、三浦君! ほんとに来てくれたんだ」
そうして茜はいつものように、美幸より三つ離れた椅子に鞄を放り投げると、教室の片隅に鎮座している本棚へと向かった。そこは、主に写真雑誌など、勉強用のものが放り込まれているのだが、漫画などの無関係のものも多い。その一番下の段から茜は、自分のクロッキー帳を取り出す。
「今日は私達だけかな?」
「どうだろうね。先生は一応説明するって言ってたけど」
茜は確かに、と呟きながら、美幸の近くの椅子に腰を下ろす。ぱらり、開かれるクロッキー帳。秋は興味津々な様子で、茜の後ろからそれを覗き込んでいた。
「……うわ、びっくりした」
「えへへ。どんな絵描くのかな、と思って」
音も無く後ろについた秋に、茜は驚いたようだ。そんな彼女に、秋は悪びれる事無くへらりと笑ってみせている。
「そういえば、さっき、鞄にクロッキー帳入ってたよね?」
美幸が茜を助けるようにそう言うと、秋はふ、と一瞬だけその笑いを引っ込めた。その表情の無い眼差しに、背筋がひやりとするのが分かる。
「うん。小林さんのも見せてね?」
眼差しは一瞬で消え去り、再び秋はえへ、と笑っていた。そうして笑いながら、鞄からクロッキー帳を取り出してみせる。
それは良くある、小さめのサイズの、青いものだった。
「あら、奇遇ね。私と同じだわ」
美幸も鞄からそれを取り出しながら言う。そして秋の手から、同じクロッキー帳を受け取り、自分のクロッキー帳を渡した。
「私も見る見る」
茜も気になるらしく、美幸の所へ移動してきた。心底興味があるという表情を見せている。
美幸は静かに茜を見つめた後、そのクロッキー帳を開いた。