その転校生は、するりと美幸達の日常に入り込んできた。
 ガラスの向こうの教室の中からは、賑やかな声が響いてくる。そして僅かに漂う食べ物の匂い。それは今歩いている廊下にまで達していた。
「……何?」
 賑やかな声のせいで、後ろをついてくる人物の声が聞こえない。小林美幸は眉をひそめがらもくるりと振り返る。視界の隅に、自分のすとんと真っ直ぐな黒髪が閃いた。
「ね、さっき、お土産って言ってたけど、それって何?」
 美幸の斜め後ろには、一見すると女の子のような男の子がついてきていた。制服はしっかり男のものなのだが、雰囲気が何となく中性的なのだ。
「来てみれば分かるかな」
 美幸はそれだけ言うと、再び前を向いた。そのまま廊下を突き進む。
 美幸の後ろをついてくる彼、三浦秋は、高校にしては稀に見る転校生だ。今日、彼は彼女達のクラスにやってきて、そして美幸の後ろの席を与えられた。たちまち彼は、不自然なまでの自然さで、クラスへと溶け込んでいた。
 ひとりでいるのが好きな美幸は、秋ともあまり関わる事無く昼休みまでを過ごしていた。
そんな中、秋は昼休みになるまでは、散々周りの生徒達に話しかけられ、彼も穏やかな表情でそれを受け容れているようだった。
だから美幸は、いつもの通りに窓際の席でのんびりと弁当を食べ、いつものように、図書室へと向かうつもりでいたし、今もそうしている。
 だがその日課に、秋はするりと入り込んできたのだ。人が自然と寄り付かないように行動している美幸の日常に。
 ひとまず、いつもの通り、幼馴染の茜のところに寄ってから、図書室へと向かうつもりだった。茜に、是非後ろをついてくる秋を見せてあげたい、とも思っていたからだ。
「茜」
茜がいる筈の二年一組の教室の前に来た美幸は、ひょい、と教室の中を覗き込んだ。中ほどにいる集団に向けて声を掛けると、ひとりの女子がその声に反応してぱっと振り返る。
「あ、美幸だ」
 ふわふわした、くせ毛のその女の子は、くるりと振り返って美幸の名を呼んだ。海道茜は、彼女を取り囲んでいる取り巻きの子達に侘びを入れると、こちらに向かってくる。
 その場にいるだけで、場が明るくなるような表情を茜は浮かべていた。
「随分今日は早いね。私、まだ半分もお弁当残っちゃって」
「何となく、ね」
「今日は何?」
「この前出たばかりの新刊」
「へぇ、なるほどねぇ」
「あ、そうそう、今日はお土産があるんだった」
 美幸はそう言って僅かに口の端を上げると、くるりと後ろを振り向いた。そこには秋が立っていて、相変わらず状況についていけない表情を見せている。
「――あ、もしかして」
「やっぱり噂は早いわね」
 茜は秋の存在に、些か驚いたような表情を見せていたが、すぐにくすりと楽しそうな笑みを浮かべた。どうやら転校生が入って来たという情報は、このクラスまで流れてきているようだ。
「噂には聞いてたけど、すっごく綺麗な子ねぇ」
「そうでしょ。図書室についてくるって言うから」
「え? 美幸にしては、随分仲良くなるのが早いんじゃない?」
「席が後ろなの」
二人の独特な雰囲気に、秋はどこか戸惑ったような、そんな表情を浮かべている。茜はそれに気がついたのか、にこりと秋へ視線を向けた。
「はじめまして。私、美幸の幼馴染で海道茜って言います」
「こんにちは。三浦秋です……」
 秋は茜の言葉に、直ぐに順応して柔らかな笑みを浮かべた。茜は美幸と正反対の、社交的なタイプだ。だが、それを抜きにしても、秋はかなりの順応性があるようだった。
「ふふ。美幸の後ろの席なんて、勿体無いわね。……そうだ」
 茜は僅かに声音を変えて、片眉を上げてみせた。眉を上げることで誤魔化しているように見えるが、美幸にだけは分かる。
 彼女は緊張しているのだ。
「ね、部活はどこに入るか決めた?」
「ううん。今日、先生が教えてくれるって言ってたから」
「そうなんだ。ね、良かったら美術部においでよ」
「美術部?」
 美幸は、茜が話そうとしている事に、小さくため息をついた。きょとんとしている秋に、茜は美幸の顔を見て、まだ教えてなかったの、と問う。
「だって、聞かれた事しか話してないもの」
「はぁ……、なんて美幸らしいの。あのね、美幸と私、同じ美術部なのよ」
「え? そうなの?」
「……そう」
 やや面倒くさげに、美幸は頷く。秋はきょとんとした表情の中に、微かに違う感情を浮かべていた。それは、興奮にも似た表情である。
「……すごい偶然。俺、前の学校で美術部だったんだ」
「ええ?」
 美幸と茜の声が重なった。秋は少し頬を赤くする。
「嬉しいな。今日、美術部にお邪魔してもいい?」
「も、勿論!」
 やった、部員ゲット、と喜んでいる横で、美幸はどこか複雑な気持ちを抱えていた。茜は嬉しそうに飛び跳ねているが、その底には、複雑な気持ちを抱えているのだ。目が無理矢理細められている。
 美幸はただ黙って、二人の会話に耳を傾けていた。


 背中よりずっと遠くに、生徒達の賑やかな声が響いてくる。続いて身体一杯に、静寂が押し寄せてくる。
 第一校舎の廊下の一番奥、突き当たりに図書室はあった。
 もともと図書室は静かな空間なのが普通だが、この学校の図書室は更に静かだった。まるで学校から隔絶された、違う空間なように感じてしまう事がある。
「静かだね」
 秋もそれを感じてか、美幸の斜め後ろでぽつりと呟いた。美幸はそれに小さく頷くことで答えを返す。
 扉に手を掛け、横に引く。がらり、と音を立てて扉は開いた。そしてむわ、と乾いた本の匂いが一杯に広がる。
 聞こえるのは、ぶうんという、モニターの僅かな音と、時々聞こえるざわめき声だ。
昼休みはあまり生徒は利用しない。皆、腹ごしらえをするのに必死だからだ。
 放課後は受験生で一杯になってしまうこの部屋の、この静寂の時間が美幸は好きだった。返却ボックスに本を返すと、彼女はいつものように、文庫がきっちりと並べられている本棚へ向かう。
 秋はどうするのかと背中で探っていたが、すぐ後ろに足音を感じた。どうやらついてきているようだ。
 何か話をした方が良いのかと一瞬考えるが、すぐにその考えを打ち消す。どうせ聞かれていないのだから、わざわざ自分から話題を振る必要も無い。
 そうして、新しく借りようと考えている本の目星を付けていると、背中にいるらしい秋の声が響いた。
「いつも何の本を読んでるの?」
「……うーん……、特には決めてない、かな」
「そうなんだ」
「うん」
 ざわ、と本棚の横にある窓から、温い風が吹き込んできた。纏まっていないカーテンが、ふわりと揺れる。目に入るのは中途半端なクリーム色。
 ふわり、と鼻に、人に似た匂いがした。それはどこか乾いた匂いだった。
「海道さんとは、仲が良いんだね」
「そうねぇ……」
 美幸は本の背表紙を指で追いながら、小さく笑った。あ行、い行。そうして心の中で、そんな言葉なんかでは言い表せない、と呟く。
 そう、自分と茜の仲は、幼馴染、とか親友、とかでは到底言い表せない仲だと思う。
 秘密を共有している共犯者とでも言えば良いのだろうか。それとも、お互いの姿に惹かれながらも、同じくらい憎んでいるとでも言えば良いのだろうか。
「ふうん」
 秋は小さく頷くと、美幸の隣に並んだ。
「学校も、一緒なの?」
「そう。小学校から一緒なの。家も近いしね」
「ふーん……」
 秋はまた頷くと、美幸を真似てか、本の背表紙を追う。美幸は面白そうな本の題名が引っ掛かり、手前にその本を抜き出した。
「でも」
 その時、不意に秋がそう呟いたので、美幸は全てを引き出す前にその手を止めた。ゆっくりと、静かに秋へと視線を向ける。
 秋の声は、その時妙にひやりとしていた。彼はその整った顔立ちに、そつなく穏やかな笑みを浮かべている。
「なんか、違和感があるんだよねぇ」
 そうして彼が言った言葉に、美幸は手に取りかけていた本を取り落としそうになった。ひやりとした言葉に強張っていた体を解除させ、宙に浮いている本を取る。
 どうにか元の自分を取り戻そうと、美幸はその場で頭を回転させた。そして、普段と変わらない笑みをどうにか思い出して浮かべる。
「……どういうこと?」
「……ううん、何でもない」
 秋は何かを言いかけていたが、小さく首を横に振って、背表紙にかけていた指を外した。
「放課後が楽しみだな」
 秋は小さく呟くと、ふらり、と文庫本がある棚から外れて歩いていく。
 美幸は秋の背中を見つめながら、ぼんやりと頭の中で茜の姿を思い浮かべていた。